第30話 残された声

 静寂が広がっていた。

 つい先ほどまで光と闇が衝突していた深淵の記録庫は、今や不思議な静けさに包まれている。

 舞い散っていた黒いページは消え、白紙だった本棚には少しずつ文字が戻り始めていた。


 藤堂蓮は床に仰向けに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返していた。

 体の奥が焼けるように痛み、視界は揺れている。

 だが、不思議と心は軽かった。


「……終わったのか……?」


 かすれた声が空間に響く。


 隣に腰を下ろしたリィナが静かに答えた。

「……ああ。少なくとも、“深淵の影”は退けられた」


 彼女の青い瞳はいつも通り冷たかったが、その奥には確かな安堵の色が宿っていた。


 蓮は薄い笑みを浮かべた。

「……ブラック図書館の残業、ようやく定時退社ってわけか……」


「愚か者。お前は死にかけているというのに、冗談を……」

 リィナは呆れたように言いながらも、その声はどこか優しかった。


 しばしの沈黙。

 空間の奥から、本棚に刻まれた文字がざわめくように響く。

 耳を澄ませば、それは人々の声だった。


――ありがとう。

――忘れないでくれ。

――記録が、再び繋がった。


 失われた記録の一部が、確かに戻ってきていた。


「……聞こえるか?」蓮が呟く。

「これ……戻ってきた声だよな」


 リィナはわずかに目を細め、頷いた。

「そうだ。お前と私が繋ぎ止めたからだ」


「……全部は無理でも、ちゃんと残せるんだな……」


 蓮はカードを握りしめ、微かに笑った。

 その笑みは疲れ切っていたが、確かな達成感が宿っていた。


 だが、その安堵を切り裂くように、背後から低い震動が響いた。

 本棚の奥に、まだ黒い靄がわずかに残っている。


「……なんだよ……もう追加残業か?」


 蓮は苦笑したが、リィナの表情は険しかった。

「違う……これは“深淵”とは別の気配だ。別の影……」


「別の……?」


 リィナは視線を落とし、わずかに震えを隠した。

「……おそらく、“次の核”が動き始めている」


 沈黙が広間を満たした。

 記録を取り戻した喜びと、新たな試練の予兆。

 二人の胸に去来するのは、決して軽くはない覚悟だった。


「……なるほど。休憩なしってわけか」

 蓮は苦笑し、力なく床に寝転んだ。

「ほんと、社畜向きの転生だな……」


 リィナは呆れたようにため息をつき、そっと彼の隣に座り込んだ。

 青い瞳は、ほんの一瞬だけ柔らかく揺れていた。


 遠くで本棚の軋む音が響く。

 忘却との戦いはまだ続く。

 だが確かに――「声」は残った。


 藤堂蓮とリィナは、それを胸に刻みながら、静かな余韻の中で次なる試練を待っていた。

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