第12話 残された名

 広間に残ったのは、黒い煤のような痕跡だけだった。

 影のリィナは霧散し、戦いは終わったはずだ。


 藤堂蓮はふらつく足で書棚に近づいた。

 だが、並んでいるはずの本の大半は――なかった。

 抜き取られたように、棚に空白がぽっかりと並んでいる。


「……本が……ない」


 呟いた声は乾いて震えていた。

 戦って勝ったのに、守れなかった。

 影に飲み込まれた本は、もうどこにも残っていない。


 リィナが静かに言った。

「影喰いに奪われた記録は二度と戻らない。

 どんな文明も、英雄も、語られなければ消える。……それが忘却だ」


「……マジかよ」

 蓮は拳を握った。

 血の味が口に広がる。悔しさで、奥歯を噛みすぎた。


「つまり……この棚にあった声は、全部消えたってことか」


 答えは沈黙。だが、それ以上の肯定はなかった。


 胸に冷たい穴が開いたような感覚。

 勝ったのに、守れなかった。

 それは初めて自分が「遅れた」ことを痛感させる。


「……くそ……俺がもっと早ければ……」


 拳を棚に叩きつけた。埃が舞い、指の皮が裂ける。

 血が滲んでも痛みより悔しさの方が強かった。


 リィナは無表情のまま彼を見ていた。

 だが、その青い瞳はかすかに揺れている。


「蓮。責めるな。すべてを救うことなど誰にもできない」


「でも……」


「私も救えなかった。だから今ここにいる」


 静かな言葉。

 それは彼女自身の罪の告白でもあった。


 蓮はカードを取り出し、強く握りしめた。

 焦げた表面に残るひび割れ。

 そこには、かつての管理者アーヴィンの名が刻まれている。


 不意に声が蘇った。


――“守ってくれ”


 蓮の目が大きく開かれる。

 あの時、影に呑まれても残った言葉。


「……ああ。守るよ。

 全部は無理でも……選んで守る。絶対に」


 彼は静かに宣言した。


 リィナの唇がわずかに動いた。

 それは嘲笑でもなく、諦めでもなく――かすかな安堵。


「……愚か者」


「お決まりのやつだな」蓮は苦笑した。

「でも、その言葉、ちょっとだけ優しく聞こえるぞ」


 リィナは答えず、ただ視線を逸らした。


 その時。

 奥の書棚が不気味に揺れ、黒い霧が再び漏れ出した。

 蓮とリィナが同時に振り返る。


 霧の中から現れたのは、無数の口を持つ影だった。

 それぞれが異なる声で囁きを吐き出す。


――忘れろ。

――名を消せ。

――お前の声は無意味だ。


 蓮は歯を食いしばり、カードを握り直した。


「……守れなかったものもある。

 でも……これ以上は絶対に喰わせない!」


 光が弾け、兵士たちが再び姿を現す。

 囁きの戦場が、再び幕を開けた。

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