別荘にて(7)

(……集中しろ)


今はこの結界を完成させるのがすべてだ。

もう少しだ。

ちりちりと、マキアの力が周囲に散っているのがわかる。髪や袖が揺れている。制御が甘い。

悔しいが、ともかく今は何でもいいから結界に力を……


ガッ、と鈍い音がした。

はっと、いつの間にか閉じていた目を開くと、ビクトルがバランスを崩して床に膝をつくところだった。


「……!」


術は中断したくない。

けれど、体勢を立て直そうとするビクトルよりも、鎧の剣が、振り下ろされるほうが、はやい――

とっさに、札を投げた。

成功するか、しないか。

何でもいい、鎧の気を引ければ!


その札がくるりと宙を舞った。

ひゅうっと、形が変わる。しなやかな黒い影に。

それが、鎧に飛びかかった。

兜に当たったその影が分かるのだろう、鎧は剣の軌道を逸らし、床に切っ先を触れさせながら闇雲に振り上げた。


「……あ?」

「ビクトル、下がれ!」


札から変化したその影は、ぴょんぴょんと跳ね回る。まるで、生前かそれ以上の動きで。

小さな頭に、三角の耳がふたつ。胴は伸びやかに長くなるし、丸くなる。曲がった足先が、爪を出して鎧のプレートを引っかきながら蹴り上がる。

尻尾は……なぜか普段見かけるそれらの種より一本多い、二本、短めだ。

緑色に光る瞳が、残像を残して鎧にまとわりつく。


マキアの隣に立つビクトルは、怪我はなさそうだ。


「……なんだぁ?」

「お前はそのまま……クロ!」


呼びかけると、影はそのままタッと鎧の肩を蹴って跳び、四つ足で走りこちらに戻ってきた。

それを追う、鎧。

ガシャガシャと走り、影を追い……

結界の前で止まった小さな影に、剣を真上から刺そうとした。

影は目にも留まらぬ速さでその鎧の腕に飛び乗った。たたっと肩に上がり、兜の上に乗り上り――ガッと、後ろ足で蹴った。

ぐらりと前のめりにバランスを崩した鎧が、足を踏み出す。


結界の発動。

うっすらと光る円形の場に、鎧は体を軋ませながら逃げようと足掻く。動きはだいぶ鈍い。


影――黒猫が足元に戻ってきた。

退魔の印を手で組む。

ビクトルは構えを解いていない。……また彼に頼ることにならなければいいが。

結界の中の、動きは緩慢だが暴れる鎧を見据える。


足元の黒猫が、ぐぐ、と大きくなった。

見る間に一回り以上大きくなる。


(……え?)


マキアの力を使って、大きくなっているらしい。

そんなこともできるのか。


ギギギ、と嫌な音を立てて、鎧の剣が結界を引っ掻く。

みしり、と結界が歪んでいるのがわかる。


(もってくれ――できた!)


退魔の術。


バンッ!と派手な音がして、鎧が……バラバラになる。

手足がもがれ、床にぼとぼと落ち、剣がカーペットに静かに横たわる。

ガジャン、とひときわ大きな音を立てて、胴の部分が、足だった部分の上に落ちる。

兜は。

ぽーんと飛んで、すこし離れた場所に音もなく転がった。


「……終わった?」

「……」


残滓が、壊れた鎧の上にふわふわと揺れている。


「……ビクトル」


持っていた聖水を彼の剣にかけた。


「鎧の上、1メール弱のところを思いきり斬ってくれ。そこに霊の最後の気配がある」

「斬ればいいんだな。……ハッ!」


ざっと、剣に薙ぎ払われ、すうっと霊は消えた。

散々走り回らされたあとにしては、あっさりしたものだった。


「……困ったな、バラバラだ」


なんとかなったものの。


「ん?でも繋いであったのが取れただけ……イテテテ」

「ビクトル!?」


大きな塊を興味深そうにもちあげたビクトルが、その場でうずくまる。それを見てしまい、ざっと血の気が引いた。


「おい!?」

「……ああ、さっき打たれたところ、ちっと痛めた……っぽいな」

「打たれた!?」


術に集中していて見ていなかった間だろう。悲鳴も聞こえなかったから、無事だと思っていたのに。


「見せろ……ああ、暗くてわからない」

「いや、たぶん打撲かなんかだ……めっちゃ痛えけど」

「痛いんじゃないか」


左腕らしいが、本人の言う通り血は出ていなさそうだ。


客室に行く。

念のため結界は張っておいて、明かりをつけておいた休憩場所だ。


「……うわ、腫れてんなあ」

「……」


患部を見るためにめくり上げた腕のところ、真っ赤になってパンパンだった。


「……折れてはねえな。ヒビだと思う。まああれだけの騎士によくこれで済んだなあ」

「……だが、俺がもう少し早ければ」


いや、二度も粘らなければ。


「ん?なんで?」

「ナンリは……もっと速いし強力な術を使える」

「いやまあ、なんとかなったじゃねえか」

「……」

「ううん、まあ、俺ももうちょっと強ければな!そうそう、お前に助けられたんだろ、さっき」

「……?あ、ああ、助けた……というのか?」

「よくわかんねえけど、術だよな?あいつの気を引いてくれてまじ助かった、ありがとうな」

「……俺がもたもたしなければ、お前も怪我なんか……」

「いいって!」


手当てを、と今さら立ち上がろうとすると、足元に何か触った。ぎょっとしたが……足に擦り寄る黒い影に思い出して、それを持ち上げる。


「……?何してんだ?」

「ああ、お前には見えないのか」


マキアの腕に乗った、黒い猫。

式神という。

霊や神霊を使役する術と、その使役霊のことだ。


「え?幽霊いるのか!?」

「ああ、俺に服従していることになるから、無害と言うか、命令を聞いて動くんだが」

「へえ、小さいんだよな、その感じだと」

「……猫だ」


ただし、尻尾が二股に分かれている。

これは東洋の妖怪というもので、猫又というらしい。

ただ、この猫は別荘に来る途中の山道で見つけた。

急に現れたから驚いたのだが、尻尾にさらに驚いた。


ちょうど式神の理論を頭に入れたときで、ためしに式神化するとすんなりできた。

初めて出したから上手くいくかと不安だったが、よく言うことを聞いてくれた。


黒い毛並みを撫でると、まるで本物のような手触り。おとなしい性格なのか、まんざらでもなさそうに腕に収まっている。


「……猫」


ビクトルが、ふるふると震えている。


(そうか、幽霊が怖いって)


一度札に戻すか、と慌てたマキアの前で、ビクトルはがっと拳を握った。

キラキラの笑顔。


「マキアに!猫!最強じゃねえか!」

「何が」


よく分からないことを言い出した。


「猫!見てえなちくしょう!って、いっで!」

「動かすなよ……ヒビだとか言ってたじゃないか」


なにやら大丈夫そうだ。

ただ、痛そうなのは本当なので、手当てをする。とはいっても、ビクトルがさっさと自分でしてしまった。

手慣れている。


「怪我なんてしょっちゅうだぜ?訓練でまじの打ち合いをするから、アザだらけだし」

「そう、か」

「さっきも言ったが、あの鎧、俺より格上だった。たぶん生きてたときはすげー騎士だったんじゃねえのか」

「……そうかもしれない。記憶をすこし見たんだが……」


おそらく、主君のために戦った騎士なのだろう。

ただ、何度も戦いに出たのに、最後は病気で体もろくに動かなくなり、静かに亡くなった。

その時戦いが起こっていて、主君はそれに赴いていた。


「……主君と一緒に戦えない自分を呪い、鎧に取り憑いた。そんなところだろう」

「……そこまで戦いたかったのか。気持ちは分からないこともないが」

「俺たちを見つけて、敵だ敵だと大喜びだったぞ」

「ぶは、執念すごい」


ビクトルは包帯を巻きながら笑っている。

……いいなら、いいのだが。


「あの鎧の削り取られた部分も気になるし……たぶん高位貴族の関係だろう。どう流れてここに来たのか分からないが」


鎧に数カ所、抉ったような傷があるのを発見していた。元はそこに貴族の紋章が刻まれていて、何らかの理由で削り取られたと考えてよさそうだ。


「最後に俺の剣にかけたのなんだったんだ?」

「聖水」

「……ん?あの神殿で売ってるやつ?」

「ああ」

「効くのか?」

「もちろんだ。何か」

「いや、あんまり神殿はそういうのうまくないとか」

「ああ、誤解させたか。神官だって除霊、退魔、祓いとかは十分できる」

「そうなんだな」


「聖水はかなりコスパがいい」

「コスパ」

「何でも清められる。神殿に行けばいくらでも貰える。まああんまり行くと怪しまれるから、たまに買って備蓄してるんだが」

「現実的だな」


楽な方法を取るのは当たり前だろう。


「これでよし、と。じゃあ鎧片付けないと」

「お前怪我してるんだから大人しくしろ。明日アイドンたちが戻ってきたら手伝ってもらう、今日は休め」

「……それもそうか。じゃあ……いや、腹減ったな……」

「……あれだけ夕食を食べておいて?」


メインのステーキを2枚食べていた。見ているだけで胸焼けがしそうだったのだが。


「運動したし」

「……分からない」

「お前食べないもんな……あ、」

「……なんだ?」

「いや、何でも」


くつくつと喉を鳴らすような声で、ビクトルは笑った。

目が、妙に甘そうな色になっている。


「厨房漁っていいか?」

「明日料理長に怒られる勇気があるならな」

「じゃ、覚悟して」


空腹のほうが勝ったらしい。

パンとチーズ、それに炙って冷めたベーコンの端切れがあった。ワインも開封済があって、完璧だとビクトルは大喜びだ。


「かんぱーい!」


ワインを入れた適当なコップを、かちりとぶつけられた。

なんの乾杯だ。

ビクトルは意味はどうでもいいらしく、くっとワインを一気に飲み干した。


「ん、もしかして料理用だったか。ますます料理長に怒られそうだぜ」

「ネズミが出たとでも言っておこう」

「でかいネズミ2匹だな?」


マキアも飲んでしまったので、仕方がない。

式服の上だけ脱いで、マントを羽織って汚さないようにしている。腹はすかないが、のどが渇いていたのだ。


「しかし、面白いよな、戦いたくて幽霊になって鎧に取り憑くとか」

「迷惑な話だ」

「主君のためにって、ちょっと気持ちが分かっちまうのも切ないぜ」

「……そうか」


あの鎧も最後に戦えて、すこしくらい、気持ちは晴れただろうか。


「いて」


ビクトルが腕をかばっている。利き腕ではないらしいので、それも幸いしたと言っていたが。


「痛むのか」

「すこーしな」

「……」

「お前、すごい心配してくれるよな」

「……俺のせいだろう」

「違うって!俺がお前についてきてるのは俺が決めたんだ。逆に困るぞ、俺がやったことにそんな責任感じられても」

「……」

「だから、気にするなって。心配してくれるのはうれしいけど」


これが心配というものなのかは、分からない。

ただ、ビクトルの顔を見ていると苦しいのだ。

彼は困った表情をしている。


「じゃあさ、心配するくらいなら、ちゃんと話してくれよ。怪我より、つらいんだわ」

「それは……」

「なあ、頼むよ。俺はお前が――」


言いかけて、ピタリとビクトルは動きを止めた。

すぐに動き出したが、どこかぎこちない。


「……前に言っただろ、友人だって。今でもそう……思ってる。だからさ、お前がそういうの、嫌かどうかだけ聞きたい」

「……」

「嫌じゃないんだな?」


頷くしかない。

胸が苦しい。


マキアがどう思ったって、ビクトルは勝手にマキアを友人だと言うし――勝手に離れていく。

人間の心なんて、分からない。

理解しようとも思わない。理解してもどうしようもなく、終わる時は終わる。家族がマキアを追い出したように。


「……そっか」


ビクトルは、顔を背けた。

無事な手で顔を隠すように覆ったが……見えてしまった。

なぜか赤い。

マキアはマキアで、みょうに首筋の当たりがむず痒くて、そっと手で撫でる。


(ああ、こわい)


足元で暗闇が口を開けているようだ。

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