第7話 第2章 絶望の向こう側 ③
田中寛子が鈴木哲郎に声をかけた日、寛子は哲郎を宗教に誘った。でも彼女は、宗教の力を本気で信じていた訳ではなかった。彼女には勧誘のノルマがあったから、思いつきで誘ってみただけだった。
寛子は哲郎の自殺を本気で止めた。それは命を粗末にしてはならないという彼女の信念からくる行動だった。
だから寛子が哲郎の自殺を止めた時に目的は達成されていた。彼女はそれで満足だった。自らの情熱が他者の死を止めたことで、ある種の清々しさすら感じていた。
しかし目的が達成された後、寛子はふと冷静になって現実に引き戻された。そして自分の仕事を思い出したのだった。
寛子が哲郎の死を止めたのは信念からくる行動だったけれど、哲郎を宗教に誘ったのは完全に打算から来ていた。このままの流れで行けば、勧誘が成功しそうな雰囲気を感じたからだった。
でも哲郎は宗教など最初から信じていなかった。彼が宗教の勧誘に乗ったのは、破滅的な好奇心に動かされたからだった。
いっそのこと分かりやすく破滅の道を辿っていきたい。そのために今の自分がどう堕落していくのか興味がある。それが彼の動機だった。
この男には最初から信仰心などかけらもない。寛子にはそれが分かっていた。でも彼女にとってはそれで良かった。信仰心を持っていないのは自分も同じだったから。
それでも寛子は哲郎のことが放って置けなかった。彼女は無意識のうちに確信していた。今の彼にはどこでも良いから居場所が必要なのだと。
そして信仰心など持ち合わせていなくとも、寛子は教団内部の人間関係に助けられた。だからこそ彼女は、彼が教団に入ることである種の支えが生まれるかもしれないと思った。
そのために寛子は哲郎を宗教に勧誘したところがあった。彼女自身はそんな理由を明確に自覚していたわけではなかったけれど。
そうして哲郎は新興宗教の集会に通い始めた。というより彼は、田中寛子という一人の女性に会うためだけに、教団に出入りするようになったのも同然だった。
最初はただ自らの破滅を求めて、新興宗教に足を踏み入れた。しかし、哲郎は面食らうことになった。そこにいた人たちは予想と違って、ほとんどが「普通の人」だった。
信者の入信した動機は人それぞれだった。
もちろん中には、崇高な宗教的野心を持っていた人間もいたが、ほとんどは日々の自分の暮らしだけが関心事だった。
自分自身の卑近な悩みごとを解決する手段として、宗教にすがっているだけだった。
だから教団内部の人々は多くが、宗教的な事柄を離れると世間一般と同じことを考えていた。宗教の話題さえ持ち出さなければ、世間一般と変わりないことを話している人たちだった。
哲郎は次第に、教団に馴染むようになっていた。彼は皆と話す時はできるだけ宗教的な話題を持ち出さないようにした。そうすれば形だけでも孤独を紛らわせることができた。
しかし哲郎が本当の意味で心を許していたのはただ一人だけだった。
哲郎は寛子がいるからこそ教団の集会に通い続けた。彼が新興宗教の信者を続けた理由は、あるいは彼が生きている理由そのものが寛子の存在となっていた。
哲郎は寛子に恋をしていたのだろうか。それを哲郎に問いただしてみたところで、彼は混乱するだけだっただろう。
彼は未だに家族のことを愛していた。別れた妻と娘のことを世界で誰よりも愛していた。彼にはその自負があった。
しかし同時に彼は、どうしようもなく寛子に心を惹かれていた。それが恋という明確な形をとっていたのかは分からない。人間的な親愛の情と言った方が彼にはしっくりと来たかもしれない。
でもいずれにせよ彼は、寛子の存在なしには生きていけなくなっていた。あるいは寛子の存在だけが生き続ける理由となっていた。彼女がもしいなくなれば、おそらく彼は再び自殺を考えていただろう。そしてたやすく生と死の境界線を跨いでいたことだろう。
いつしか哲郎にとっては、寛子と会って話すことが日々の中心となっていた。そうして進展することも後退することもなく二人の関係は続いていく。彼はそう思っていた。
しかしやがて二人の周りには、そして教団内部には不穏な雰囲気が漂うようになった。それが二人の関係性を予期せず変えていくことになった。
哲郎はある日、一つの違和感に気がついた。信者の一人を最近、見なくなっていた。
そこで哲郎は他の信者に聞いてみた。「最近〇〇さんを見なくなったね」と。
その信者は笑いながら言った。「〇〇さんって誰? 最初からそんな人はいないよ」
哲郎は背中に冷や汗がにじむのを感じた。念の為に、何人かの信者に同じことを聞いてみたが、皆が同じような返事をした。そんな人は知らない、最初からいないと。
明らかに何か良くないことが持ち上がっている。哲郎はそう感じた。
いなくなった信者の痕跡を探してみたが、教団内部から一切の痕跡が消えていることに気づいた。名簿からもロッカーからも皆の記憶からもその信者は消えていた。
そしてそのような信者は何人かいた。元々はいたはずなのにいつの間にか見なくなっていて、まるで最初からいなかったかのように扱われている信者たちが。
哲郎は寛子にも確かめようと思った。しかしそれは彼にはなかなかできなかった。
もし、寛子が他の信者と同じように「その人なんか知らない」と言い出したら、彼女のことすら信じられなくなる。それは何よりも恐ろしいことのように思えた。
だから最初は、教団内部に見え隠れする異質性を無視しようと考えた。というよりは、余計なトラブルを抱え込まないために何とか無視していたかった。
しかし哲郎にはそれができなかった。哲郎の中の何かが突き動かして止まなかった。
彼は思い切って寛子に聞いてみた。
「最近〇〇さんを見なくなったね」
「そう言えばそうだね。最近あの人のこと見なくなった。どうしたんだろう?」
哲郎は嬉しかった。寛子はまだ向こう側の人間ではない。
彼女はその核とも言える良心をまだ失った訳ではないのだ。
哲郎は涙が出そうになるのをこらえた。そして寛子に教団内部の異質性を打ち明けた。
寛子は青ざめた顔で言葉を失っていた。
教団の良心に救われたと思っていた寛子にとって、それはまるで天変地異と言える衝撃の事実だった。
寛子は最初、どうしたら良いのか分からなかった。彼女はしばらく逡巡した上で、教団から去ることにした。
しかし哲郎はそうしなかった。彼は教団の二面性をどうしても許せなかった。彼は突き動かされるように教団の秘密を探り始めた。
もう全てどうにでもなれ。そう考えている彼だからこそできる無謀だった。
寛子はやがて哲郎を支えるようになった。初めは黙って去ろうと思っていた。けれども哲郎が教団に残ることを知った彼女は、どうしてもいなくなることができなかった。
寛子は彼のそばにいたかった。いつしか彼女はそう思うようになっていた。
それが恋愛から来る気持ちなのかは分からなかった。けれども彼女は哲郎のそばにいることに居心地の良さを感じるようになっていた。
ある日、哲郎は青ざめた顔で家にやってきた。哲郎が寛子の家に一人でやってくるのは初めてだった。そんな哲郎を寛子は驚いて迎え入れた。
「どうしたの? ひどい顔をしているわ」寛子は心配そうに尋ねた。
哲郎はしばらく何も言わなかった。ただその場に立ち尽くしていた。
「とりあえず座って」そう言って寛子は哲郎をこたつに入れて、毛布を肩にかけた。
哲郎は座ったまま震えていた。寛子から見た哲郎は明らかに体調が悪そうだった。
寛子は哲郎のために卵がゆを作った。哲郎はそれを何も言わずにがむしゃらに食べた。
やがて哲郎は目から涙を流すようになった。寛子は心配そうに哲郎を見ていた。
「ありがとう。君がいてくれて本当によかった」
哲郎は他意なくそんな言葉を漏らした。寛子はそれを聞いて顔が赤くなるのを感じた。
「どうしたの? 急にそんなことを言い出して」
寛子は恥ずかしさを紛らわすように尋ねた。哲郎は相変わらず青ざめた顔をしていた。
「もし君がいなかったら、この事実を一人で受け止めることはできなかったと思う」
「何があったの?」
寛子は心配そうに哲郎に聞いた。哲郎からただ事ではない雰囲気を感じていた。
「実は……」哲郎は自分が知った事実を寛子に語り出した。
哲郎は、信者たちの存在が消された理由の一端を知ることになった。しかしそれは哲郎一人では受け止めきれない事実だった。
哲郎は消えた信者の行方を探すことにした。
哲郎と知り合いだったその信者は、姿を消す前にある町を訪れると言っていた。
そこは教団本部がある町だった。存在をなかったことにされた信者は、その町に行ったのを最後に行方が分からなくなっていた。
教団本部の中で何かが起こっている。そう考えた哲郎は、自分自身で教団本部を訪ねることにした。表向きはあくまで研修目的として。
そこで哲郎は知ってしまうのだった。その信者が亡くなっていたという事実を。
彼はしばらく滞在しているうちに、何人かの知り合いができた。その中には中堅の教団幹部もいた。
その人物の家でお酒を飲みながら、哲郎はあくまで興味本位のように聞いてみた。
「そういえば、いなくなった人たちって結局どうなったんですかね」
幹部は酔いながら、秘密を打ち明けるように言った。
「ここだけの話だけど、燃やされたんだよ。彼らはみんな死んでいる。そして密かに火葬されたんだ。その死を世間から隠すために」
哲郎は内心では疑惑と恐怖に駆られたけれど、その場では表情を崩さずにやり過ごした。幹部と別れると、哲郎はすぐに教団本部の町を後にした。
そのまま哲郎は青ざめた顔で寛子の家に転がり込んだのだった。
彼は自分が聞いたことを打ち明けると寛子に言った。
「一緒に逃げよう。このままここにいたら、俺たちはいつか破滅する」
哲郎と寛子は互いに手を取り合って逃げ出した。彼らの行方を知るものはいない。
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