第3話 明るい部屋と待遇改善

 本当に彼の目的は手紙を渡すことだけだったらしく、カルナール・アベイルは侯爵夫妻の引き留めにも応じず、さっさと屋敷を後にする。嵐のような訪問に呆然としていると、侯爵は玄関先での見送りの後、苛立ちを露わにした。


「まったく……なんでアイリスはいつもこんな風にみっともないんだ。少しはマシな格好をさせておけと言ったはずだが」

 モーリアスは、自分でその服を選んだわけでもないアイリスを見て睨み付ける。


「まあ、マーガレットほどとは言わないが……」


 モーリアスが視線を向けた先には、一歳年下なのにアイリスより身長が頭一つ分は大きく育っている妹マーガレットがいる。


 彼女は侯爵令嬢らしい健康的な生活を母親と一緒に送っているから、常に栄養不足のアイリスとは体格も身長も、肌の色つやさえも違う。ピンク色の頬をした健康的な可愛らしい愛娘に一瞬笑みを浮かべたモーリアスは改めてアイリスをじろりと睨んだ。


「まあいい。とにかくアイリスに話がある。このまま執務室に来い」

 そう言われてアイリスはモーリアスの執務室に向かわされたのだった。



 執務室には侯爵夫妻が待ち構えていた。モーリアスの肩には、鷹ほどの大きさの赤い竜が止まっている。侯爵のパートナーである竜だ。


 竜は成熟すると自分のサイズを自由に変え、常に魂の朋友と一緒にいられるようになるのだ。だが、ティファはまだ成熟しておらず、小鳥程度の大きさで、アイリスと一緒でちっぽけなままだ。


「さて、早速だがお前は半年後、王宮に向かうことになった。淑女としての教育を開始するので、国王陛下と謁見するための準備を開始するように」


 カルナールが持ってきた手紙を確認した後、突然モーリアスが話し始めた内容にアイリスは驚く。だが咄嗟に声を上げるのは堪えた。不用意にアイリスが声を上げたせいで、侯爵家当主に逆らったと言う理由で侯爵夫人から体罰を受けた経験があるからだ。


「さっきの話……どういうことですか? ジョッシュではなくて、灰色竜しか持たないアイリスを王宮にって、ジョッシュではダメなんですか? 令嬢をということならマーガレットだっておりますのに」

 咄嗟に食いつくように侯爵に話し掛けたのは、侯爵夫人エリーゼだった。


(そうだよ。私が王宮にって……どういうこと?)

 アイリスの疑問を理解したかのようにモーリアスはじろっと彼女の顔を睨み付けた。


「あれだけ戒厳令を敷いたのに、アイリスの話が漏れたようだ」


「陛下に貴重な竜持ちの女児なら、さぞかし才能がある子なのだろうと、そう突然、言われた俺の気持ちがわかるか?」

モーリアスは苛立ったようすで、言葉を重ねた。


「挙げ句に一刻も早く会いたいと言う陛下を収めるために、腹心であるあの男まで連れ帰ることになったのだ」


 その腹心というのが、あの驚くほど優雅な礼をしたカルナールという男性であることを、聡明なアイリスは即座に理解する。そして侯爵はアイリスの存在を、王室に知られたくなかったということも……。


(私みたいなちっぽけな存在なんて、誰も興味を持たれないと思うのに……)

 アイリスがそう考えた途端、頭の中に、ティファの声が届く。


【アイリスはちっぽけな存在じゃないよ! アイリスはティファの盟友だもの】

 世界でたった一人の味方である竜の力強いその言葉に、アイリスは力を得る。


「だから前もって連絡を入れたんだ。アイリスにもう少しまともな服を着せろとな! しかもお前は自分の娘だとアイリスのことを紹介しなかった……」


「そ、そんな……モーリアス。貴方が何も説明もしてくださらなかったから……」


「客を連れて帰ると言っただろう! そのくらいは言わずともわかるはずだ!」

 エリーゼの反論に感情が激高したのだろう侯爵は大声を上げる。


 咄嗟に腰に下げられた鞭をつかむモーリアスの様子に、アイリスは体を硬くした。直接打たれたことはないが、幼い頃から何度も、逆らえば侯爵がアイリスに鞭を打つと夫人に脅されているのだ。


(定規だってあれだけ痛いのに。あの鞭で打たれたら、皮膚が裂けて、血が飛び散るって……。だから私に定規で打たれることに感謝しなさいって)


 いつもそう言って説教をされて、傷の目立たない定規で手のひらを打たれるのだ。


 叱責された夫人に、お前のせいだと言いたげに睨まれて、アイリスはこの場から自分の存在を消したいと身を縮こませる。そんなアイリスを見て、モーリアスはハァと息を吐き出して怒りを堪えたようだ。


「とにかくアイリスは今年十歳になるというのに、このままでは王室どころか、みっともなくて外にも出せまい。せいぜい栄養のある物を食べさせて、王宮に行くまでに教育を施せ」

 じろりとこちらを見る視線が痛い。


「侯爵令嬢らしく振る舞えるように見た目も、教養もつけろ。俺の娘だと認めさせないといけないのだからな。虐待を疑われるような傷もこれ以上は一切作らないように」

 苛立たしげに口髭を引っ張りながら侯爵は溜め息をつく。

 

「どうやら今回の話は黒竜大公オーランド・フェルトルトの申し出がきっかけのようだ。どこからどんな情報を仕入れたのか。どの程度知っているのか……なんにせよ十分に警戒しておく必要がある……」


 その言葉にエリーゼは顔を恐怖に歪める。

「黒竜大公、ですか……」


(黒竜大公オーランド・フェルトルト?)


 アイリスは初めて聞いたその名前を胸に刻む。よくわからないが、その人がアイリスを王宮に参内させるように仕向けたらしい。


 エリーゼは黒竜大公が恐ろしいのか、口を手に押し当てて何か怯えているようだ。だが次の瞬間、そのストレスをアイリスにぶつけるように睨み付けた。


「……アイリス。侯爵様の温情で、貴女に侯爵令嬢として相応しい教育を行うことになりました。国王陛下に謁見するのであれば、半年で一歳年下のマーガレット程度までは行儀作法も教養も身につける必要があります」


 夫の言うことに従わないといけないが、よほどそのことが気にくわないらしい。エリーゼの声は話しているうちに甲高く尖っていく。


「元の素材が悪すぎるので難しいと思いますが、失敗すれば名誉あるアルフォルト・赤竜侯爵家にも迷惑が掛かります。せいぜい頑張りなさい!」


 最後の方は半狂乱な叫びになる。その様子にモーリアスはうんざりだとばかりに手を振って二人を追い出す。


 そして最高潮に機嫌が悪いエリーゼに腕を引っ張られ、アイリスは執務室を出て行くことになったのだった。


***


 そしてその日から、アイリスは今までの地下の部屋ではなく、屋敷内の居室が用意された。


「ずいぶんマシな部屋になったね。でもこれね、マーガレットとかの部屋に比べると全然狭いんだよ」

 鼻に筋を寄せ赤い目を細めて、文句を言うのはティファだ。


「マーガレットの部屋なんて入ったことあるの?」

 思わずアイリスが尋ねると、ティファは小さく笑った。


「一応ね。屋敷の部屋は全部見てあるよ。なんで役に立つかわからないもの」

 空間を飛べるティファにとってはなんてこともないらしい。


「だからずっと、ボクは怒っていたでしょう? なんでジョッシュとマーガレットは立派な部屋で生活していて、アイリスだけあんな部屋に閉じ込めておくのかわかんないって」


「でも、部屋が良くなっただけでもよかったよ。王宮に行って何をするかはわからないけれど、色々教えてもらえるのなら嬉しい」


 アイリスは今までは外にすら出してもらえてなかったから、こうしてお日様が差し込む大きな窓と、庭が見える部屋に移動出来ただけでも嬉しかった。それに朝昼と、食事も腐ったり黴びたりしてないちゃんとしたものを出してもらえるようになったのだ。


「しっかり食べてください。骨と皮だけで王宮に行かせれば、侯爵様に迷惑が掛かりますから」

 ラーラよりは綺麗な衣装をつけた侍女がアイリスにそう告げる。


 ラーラが不満そうな顔をして、食事を給仕した。部屋が移動し侍女が増えた結果、元通り一番下っ端に追いやられたらしい。そしてアイリスが以前のような粗末な食事ではなく、貴族の令嬢が食べるに相応しい食事を用意させられて、気に食わなさそうな顔をしている。


 ともかく嬉しいことは他にもあった。お茶の時間におやつまで用意してもらえるようになったことだ。


(きっと私を早くマーガレットくらいには成長させないといけないからだよね)

 ティファ曰く『ぎゃくたいのこんせきがばれるとまずいから』と侍女達が言っていたそうだ。


「後は私がやるから良いわ」

 アイリスはそう言って面倒くさそうにおやつの準備をする侍女を、部屋から追い出すと、ティファと一緒に美味しそうなケーキやクッキーを半分に分け合って食べた。


「これ、最高に美味しいね!」

 ティファが目を丸くして喜ぶ。


「でも私はティファが持ってきてくれた林檎とか、外でなっている果物の方が美味しいと思うわ」

 そう言うと、ティファは照れくさそうに笑った。


「きっと、お腹が空いてたからだよ」

 ティファの言葉にアイリスは小さく首を横に振る。


「ティファが私のために運んできてくれた食べ物だったから、嬉しくて世界で一番美味しかったんだよ」

 どんな食事だって、ティファがアイリスを思って届けてくれた食べ物にはかなわないのだ。


 そんな生活になって三日後、突然アイリスは侍女から声を掛けられた。


「お嬢様、今夜は夕食を侯爵様と夫人、ご兄妹様と一緒に食べていただきます。ご準備をお願いいたします」

 彼女達が手に持っているのはマーガレットが普段身につけているような侯爵令嬢に相応しいドレスだ。


(私、あんなのを着て、食事なんてできるのかしら……)

 不安に思うアイリスはそれでも言われたとおり髪を整えてもらい、ドレスを着付けてもらう。


「……まったく、出来損ないの娘にこんな衣装なんて……無駄なことを」

 だが髪をまとめる侍女が耳元で酷いことを言ってくる。侯爵夫人の顔色ばかり見ている侍女の言葉に、家族での食事という言葉に少しだけ期待していたアイリスは、自分の立場が何か変わったわけではないのだと改めて思い知らされた。


 そして準備が整うと、晩餐の間に移動する。そこには既に侯爵夫妻と、ジョッシュとマーガレットが席に着いている。そしてもう一人見慣れない初老の女性が席に座っていた。白髪に背筋がピンと伸びた厳しそうな女性だ。


(お客様、かな)

 家族で食卓を囲んだことなど一度もない。そんな状況でアイリスは席に向かい、自分で椅子を引こうと手を伸ばした。瞬間。


「――あぁ、全くダメです。……もう一度、入り口から入るところからやり直してください」

 客と思われる女は、冷たい声でそう言うと、眉を顰め鋭い目でアイリスのことを睨み付けたのだった。


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