7話―侵食


 夜の街を走っていた。

 足元はもつれ、呼吸は荒く、心臓は破裂しそうに脈打っている。

 ビルの窓ガラスに自分の姿がちらりと映るたび、結衣は視線を逸らした。


 ――見ちゃいけない。

 ――鏡も、水も、ガラスも。


 姉の声が脳裏で反響する。

 「鏡を覗いちゃだめ。あの子たちは、裏側から鏡を通って、目の奥に入り込む」


 背後でパトカーのサイレンが鳴っている。

 あの惨状を見れば当然だ。だが、警察に説明できる言葉など結衣にはない。

 「眼球の裏側から手が伸びてきて仲間が全員殺された」――そんな証言をすれば、自分は狂人として隔離されるだけだろう。


 自宅のマンションに駆け込むと、玄関の鏡台を布で覆った。

 洗面所の鏡にもタオルをかけ、浴槽には水を張らない。

 スマートフォンの画面すら、裏返して置いた。


 すべての「反射」を封じたはずだった。

 だが、それでも――視界の端が蠢く。


 暗闇の中で、何かが自分の眼の裏から這い上がってくる感覚。

 まぶたを閉じても、それは視界の奥で動いている。


 「いや……いやぁ……ッ!」

 結衣はベッドに崩れ落ち、枕に顔を押し付けた。

 すると、不意に耳元で声が囁いた。


 「……まだ見えてるんでしょう?」


 飛び上がって振り返る。

 そこには誰もいない。

 だが、壁に掛けた時計のガラス面に――姉の顔が浮かんでいた。


 「お姉ちゃん……!」


 声が震える。

 時計の中の姉は、泣いているような笑っているような、判別不能な表情でこちらを見つめていた。

 「結衣、あなた、まだ眼を持ってる。

  だから狙われるの。

  早く……潰さないと」


 その瞬間、時計のガラスがヒビ割れた。

 そこから細い黒い指がにゅるりと伸び、宙を探るように蠢いた。


 「いやああああッ!」


 結衣は時計を床に叩きつけた。

 ガラスが砕け、黒い指は煙のように掻き消える。

 だが、破片の一つ一つの表面に、姉の眼が映っていた。

 どの破片を見ても、自分を凝視する瞳。

 裏返った白目の奥で、何かがこちらへ手を伸ばしている。


 耐えきれず、結衣は部屋の電気をすべて消した。

 暗闇なら、反射するものは見えない。

 暗闇なら、覗かれない――そう思った。


 だが。


 瞼の裏に浮かんでいる。

 視界が暗闇に閉ざされても、なお眼球の奥で蠢く影が見える。


 「ふふふふ……」


 笑い声が部屋いっぱいに広がった。

 それは姉の声であり、無数の声でもあった。

 結衣は頭を抱え、壁に背を押しつける。


 ――これは、もう逃げ場がない。

 眼球の裏側に棲む“それ”は、外からではなく内側から侵食してくる。


 そのとき、不意にスマートフォンが鳴った。

 裏返して置いたはずの画面に、光が滲んでいる。

 着信表示――「白石 慎一」。


 眼科医。すでに失踪していたはずの、あの医師の名。


 結衣は恐怖に震えながら受話器を取った。

 ザザ……と雑音のあと、掠れた声が聞こえる。


 「……まだ……いるのか……?」

 「先生!? どこにいるんですか!? どうすれば……!」

 「潰せ……自分の眼を……。そうしなければ……取り込まれる……」

 「でも……そんなの……!」

 「もう……時間がない。お前の眼には……すでに奴らが……」


 突如、スピーカーから悲鳴が響いた。

 「ぎゃあああああああああ!!!」


 次の瞬間、スマホの画面に、白石の顔が映った。

 眼球が破裂し、裏返った白目から黒い腕が突き出ている。

 その腕が、ガラスの向こうからこちらに手を伸ばしてきた。


 「来るなあああッ!!!」


 結衣はスマホを床に叩きつけた。

 割れた画面から、どろりとした黒い液体がにじみ出す。

 それがカーペットに広がり、じわじわと部屋全体に染み渡っていった。


 液体の中から、無数の眼が開いた。

 裏返った白目ばかりが床一面に並び、ぐるりと結衣を取り囲む。


 「いやだ……いやだいやだいやだッ!!!」


 涙で視界が滲む。

 だが涙の中に映る自分の姿もまた、裏返った白目になっていた。


 ――もう、内と外の境界がなくなっている。


 最後の理性が告げていた。

 「潰せ」

 「潰すしかない」


 結衣は震える手で、机の上のペーパーナイフを掴んだ。

 刃を自分の眼に突き立てようとする――その瞬間。


 「待って」


 すぐ目の前で、姉が囁いた。

 暗闇の中から、濡れた髪を垂らした姉が姿を現した。

 顔は血に塗れ、眼球は存在せず、裏返った眼窩だけがぽっかりと空いている。


 「一人で潰すのは、痛いでしょう?

  だから――私が、やってあげる」


 姉の黒い指が、結衣の頬にそっと触れた。

 その冷たさは、死よりも深いものだった。

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