あなたと契った狐のふりをしてわたしはあなたの妻になりすます

杉林重工

一 狐の日

第1話 狐の夢


 ミノ国の南端に近く、サゴウ郡という山深い地の草木に囲まれた獣道を、チヨは籠を揺らして駆け下っていた。


 時刻は昼を過ぎ夕方に差し掛かり、日はゆっくりと山間の黒い緑の中に没す。彼女はそれよりも早く、飛ぶように木々の間をかけ、泥を踏み散らして走っている。数日前に降った雨のおかげで、まだ地面はぬかるんでいるが、お構いなし。


 夏が近いからか、最近の雨の回数が増えていた。山で急に雨が降った時の恐ろしさを知っている村人は、容易に近づくことをしないだろう。


 そんなチヨの目論見が当たり、上流の沢で、ウグイやムツを罠にかけて六尾捕まえることができた。どちらとも父の好きな魚である。山菜もほどほどに採れた。ワラビにミツバ、ゼンマイ。


 魚はその内二尾を塩焼きにして今晩いただくとして、残りは干すと決めた。六尾というのは決して多くない。そして、いつまた雨になるとも限らない。さすがのチヨも雨の中、山に入ろうとは思わなかった。ふと過った山の記憶に、元気だったチヨの足がやや鈍った。


 気を取り戻すため、頭を振る。ワラビはおひたしに、ミツバは澄まし汁に添えよう。これだけの品数があれば父も喜ぶはずだ。


 キサカ村のやや外れ。つかず離れずのところに、チヨは父と二人暮らしをしていた。


 父は昔から目が悪く、チヨが十歳の時にはほとんど目が見えなくなっていた。以来、父はほとんど家を出ず、チヨに頼って生きている。そんな生活はすでに八年目に至り、生きるための食材の入手から他の村人との関係の維持まで、すべてチヨがこなしている。


 たまに、そんな彼女へ憐みの視線を送るものも少なくないが、チヨは気にしたことがない。今日の献立を考えたり、天気を読んで蓄えを用意したり、洗濯をしたり掃除をしたり。やることは山積みだし、それらをこなすのは当たり前で、なおかつ楽しいことだった。


 しばらくは晴れが続くだろう。明日からは掃除や洗濯をきちんとこなし、これから暑くなるのに備え、今のうちに衣替えを済ましてもいい。


 チヨはそんなことを考えながら、食材を満載にした籠を振り振り、家の前に至る。戸に手をかけ、チヨは大声で家の中に声を発す。


「ただいま帰りました」


「おう」


 チヨの父は低く唸るように言う。囲炉裏からは、ぱちぱちと炭が爆ぜる音。


「お夕飯の支度をしますね」


 チヨはそう言って、竈の準備をしようとした。父は囲炉裏の傍にいる。そういう時に、近くでがちゃがちゃと食事の準備をすることを父は好まないからだ。


「待て、チヨ」


 普段ならば、食事の準備をするチヨを、父が止めることはない。妙なことがあったものだと、チヨははたと父を振り見た。


 さらに珍しいことに、盲目となってからというものの、チヨの方を自分から向こうともしてこなかった父がしかし、この時は膝を揃えて竈の方に寄せているのだから驚いた。


「なんですか。どこか痛みますか」


 チヨは首を傾げた。年だからか、父のそういう要望も増えた。そういう時は、背中をさすってやったり、足を揉んだりしてやるのだ。


「夢に、お狐様のお告げがあった。お前はもう、嫁に行け」


 突然の父の命令に、チヨは笑ってしまうのをなんとか堪えた。一体何を言い出すのだろうか。土に汚れたぼろの着物の裾で口元を抑える。まだ話は続くようなので、チヨは黙っていた。


「山を越えて、川の向こうに、武家の蔵牧様がいるだろう。蔵牧様は、今でこそお役目はないが、由緒正しい武士の御家だ。ここの暮らしよりはましだろうから行ってきなさい」


 そうなるのが当たり前、といった口調で父がそういうのだから、チヨは思わず笑ってしまった。


「蔵牧様にわたしが嫁ぐなどありえないでしょう。身分が違います。もしも許されるとして、奉公人が精々でしょう。そもそも、こんな、質と山に通ようだけのわたしが……」


 蔵牧の名前はさすがのチヨも知っていた。戦で功績を上げたらしい、先祖が作った屋敷だけは立派な、しかし今ではお役目ももらえず、なおかつ本人はそれを苦にした素振りもない変わり者だと聞いている。


「いいや、チヨ。よく聞きなさい。そこの若様……いや、今はもう御当主の蔵牧晴房様は、大層な変わり者で、なんでも、昔助けた狐が恩返しに来るのを待っている、なんて言っているらしい。そのせいで、二十七か八にもなるのに今まで一人も妻を娶っておらん。屋敷も、いつ狐が来てもいいようにと、身分関係なくいつも開かれているそうじゃないか。そういう人だから、お前のような、変わった髪の色の女でも喜んで迎えるかもしれん」


 一度にそう言ってから、父は大きく息をつく。チヨはなんと返せばいいのやら。口をもごもごとさせるばかりだった――確かに、チヨの髪色は父や周囲の人に似ず、黒から色が抜けて茶色に近い。ともすれば、狐色などと言われても仕方のないもとは、チヨも思う。とはいえ、どこか馬鹿にされているような気がしてチヨは眉を顰めた。


「明日の朝早くから家を出れば、昼前には着く。蔵牧様の屋敷は大きいから見ればわかる。わかったな? 蔵牧晴房様のところに行くのだ。そして、わたしこそ狐、とでもいって恩を売り、嫁ぐのだ」


 チヨの態度など、当然目に入らぬ父の口調は、まるで崖から突き落とすようなものだった。しっし、と指先まで振る始末。その様子に、大分遅れてチヨにも焦りが生まれた。


「待ってください、どうして急にそんなことを言うんですか。本当に、夢枕に立った狐のお告げを信じているのですか。それに、おとうの世話は誰がするのです」


 突然の父の言葉たちに、チヨは顔を強張らせながら問うた。父は目が見えず、その生活のほとんどをチヨに依存している。一人でこれから先、一体どうやって生きるつもりなのだろう。布団を敷くのだって一苦労だろうに。


 返事をしない対手に、チヨの拳が自然と固く結ばれていた。


 その時、父の返事の代わりに、ぱちん、と囲炉裏の炭が弾ける音がして、チヨはあることに思い至った。


 ――この囲炉裏の火は誰が入れたのだろう。


 家を出るときに囲炉裏に火を入れた記憶はない。それに、その火に当てられた父の着物もいつもより小綺麗な気がした。


 ぱちん、ぱきん、炭が鳴る。


「蔵牧様には、わしの古い伝手もある。手紙を書いておいたから、それをもって屋敷に行ってきなさい」


 父が指した部屋の隅には、チヨが今まで見たこともない、丁寧に畳まれた着物と、簪、そして手紙が一つ置いてあった。そして、もう出ていけ、と言わんばかりの、荷物を詰めた風呂敷も。


(伝手って……)


 チヨが思い出すのは、当の昔に質に出した刀であった。先祖は名のある武士であったと主張する父であったが、家の惨状からして、それは到底信じられなかった。故に、その刀はあまりにも不気味で、放っておけば家に災禍を招くものだと思い、いち早く処分したのだ。


 きっと、口にするのも憚られる身分違いの世迷言が書いてあるに違いない手紙。しかも、その丁寧に整えられた形を見るだけで、父以外の『誰か』がしたことだとすぐに合点がいった。字も、記憶にある父の筆跡ではない。そも、もう目の見えない父が、どうして字を書けようか。


 チヨは理解した。どうにも、家のものを質に入れたり、食べるものを手に入れるために山へ行ったり、そうして自分が出かけている間に、父のもとへ出入りしている女がいるのだ。着物の畳み方など、この気配りができる様子は、きっと女に違いないとチヨは思う。


(わたしは用済みになったのだ)


 この家にある金目のものなどない。母が残した着物もほとんど売ってしまっているため、今更父の世話をしても何か得られる利はない。つまり、本当に父を好いている相手が、どういうわけか急に表れたのだ。


 チヨは少し屈んで、着物に触れてみる。チヨが普段着ている藍染の木綿よりも艶やかな、きっと絹糸も混じった紅掛空色の着物だった。それに触れているだけで、チヨが久しく忘れていた身なりを整えたときの高揚感が首筋から耳元を熱くするようだった。そこで、はっとして我に返り、チヨはまるで熱せられた鍋にうっかり触ってしまったかのように手を引っ込めた。


「お前も十八だろう。それに、昔の足の怪我だって心配だ。もう山に入って走り回るのもやめなさい」


 屈んだまま着物に集中していたチヨが父の方を見上げると、すでに背を向けていた。


 チヨは自然と、右足の傷に触れていた。これは、数年前、雨の中、なんとか父に食事を用意せねばと山に入ったとき、誤って転んで付けた傷だった。


 それにしても、とチヨは思う。いい人が現れたなら、素直にそういえばいいのに、父は全くそんなことを口にしない。


(何が、夢に出てきたお狐様のお告げだ)


 適当な、わかりきったような嘘をつかれたこともまた、チヨの胸に引っかかる。


(いい人ができて、邪魔になったのなら、隠さずにそうと言えばいい)


 チヨはすっかり呆れていた。と、同時に不思議と、渇くような寂しさや悔しさを覚える。


 ……だが、それらを流し去るように、チヨは唾を飲んだ。目を閉じて深呼吸。


「……わかりました。明朝、蔵牧様のところへ行って参ります」


 そういって、竈に戻ろうとするチヨを父は止めた。まだなにかあるのですか、とチヨが大きな声で訊ねると、父は首を振った。


「もう夕飯は食べた。わしの分はいらない」


 チヨは思わず、深くため息をついた。


(本当にきっと、死んだ母に代わって、ここに収まるにふさわしい人が現れたのだ)

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