妖怪たちの縁結び屋さん ~異世界で始めるスローな恋愛支援生活~
二辻󠄀
第1話 化け狐、縁談を断りたいと言い出す
ひんやりとした朝の空気が木造の家屋にやわらかく満ちている。庭からは小鳥のさえずる声が聞こえる。柔らかい朝日が畳を温めていく。小上がりにある囲炉裏に吊るした鉄瓶からはお湯が沸いたと知らせる白い湯気が上がっていた。
「今日もいい天気……」
そう呟きながら髪をひとまとめにした紗枝は、鉄瓶をおろしてティーポットに湯を注ぐ。かぐわしい紅茶の香りを吸い込んで、ほぅ、と長く息を吐く。
彼女の傍らには複数の茶葉が入っている茶筒と湯呑みの乗った盆、そしていままでの相談記録をメモした和綴じのノートが置いてあった。
「ふう……さて、今日は初めてのお客様、だったかしら」
あの世とこの世の狭間にあるこの世界に来て、もうすぐ三ヶ月が経つ。迷い込んだ瞬間こそ不安もあったのだが、不思議と馴染むのは早かった。この場所は
公私ともにトラブル続きで疲れ果てていたある日の仕事帰り、普段なら絶対に入らない路地に、ここを通ったらショートカットになるかも、などと思ってふらりと入り込んでしまったのが運の尽きだった。暗い路地裏にあった鳥居。どう考えても、あれはくぐるものではなかった。明らかに怪しかった。この世のものではなかった。それなのに、その時の紗枝には鳥居の奥に見える光景が、とても魅力的に見えたのだった。
――気が付いたら、なんだかよくわからない街角に立ってたのよね。
あの日、ふと気付けばどこかエキゾチックな、幻想的な、時代劇のような街並みの中に、レトロな擬洋風建築や現代的なビルまでもが並んでいる場所に立っていた。そんな不思議な街に行きかうひとたちの一部は、明らかに人間ではなかった。最初こそそんな妖怪たちの姿に驚きはしたが、今ではすっかりここが自分の居場所だったように思える。ここでは、妖怪も人もみんな穏やかで優しい。田舎のようなのどかな空気は疲弊していた心身ともに癒してくれるようで、こちらに来てからは万全の体調だと言い切って良いくらいだ。
一応元の世界に戻ることはできるようだが、それを可能にする妖怪が現在不在にしているとかで、そのひとが戻るまでは好きなように生活していていいと言われた。だが、なにもしないのも落ち着かない。ただの事務職だった紗枝だが、生来の性質のせいかあちらの世界でも相談事を持ちかけられることが多かった。すぐには戻れないとなって、すぐに思いついたのが憧れだったカフェ経営。と言っても本格的なものではなく、ご近所さんや顔見知りがいつでもお茶を飲みに来られるような場所として自宅として提供された戸建ての一部を解放することにした。
妖怪たちと雑談をする中で、彼らも人間と同じような悩みを抱えていることがわかった。なんとなくアドバイスなどをしているうちに、気付いたらこの牡丹庵は妖怪専門の恋愛相談所――というと仰々しいけれど、恋の悩みを聞いてちょっとした助言を受けるような、誰にも言えない悩みを吐き出す場所として知られるようになっていた。
人間の小娘に恋のアドバイスなどされたくない、と突っぱねられるかと思いきや、今までこのような場所がなかったらしく、すっかり牡丹庵は恋愛事情で悩む妖怪たちの溜まり場としてひとを集めていた。
さて、とエプロンを身に着けた紗枝は、定位置となっている場所に座る。
「失礼します」
開店してしばらく、牡丹庵に入ってきたのは、どこかの若旦那のような雰囲気の青年だった。深く落ち着いた茶色の髪は少し長めの前髪が輪郭を隠している。その顔はどこか憂いを帯び、伏せられた長い睫毛の下、琥珀色の瞳が暗い色に揺らめいていた。身につけているのは、上質な正絹の着物のように見えた。
「あら、初めましての方ですね」
にこりと笑いかければ、彼は「はい。初めまして。化け狐の
「どうぞ、お掛けになってください。お茶でも飲みながら、ゆっくりお話ししませんか?」
紗枝はにこやかに席を勧め、手書きのメニューを差し出す。種族によって好む物が違うので、数種類の飲み物を常備している。琥珀の選んだ煎茶を淹れて湯呑に注ぐと、芳しい香りが室内にふんわりと広がった。
「……いい香りですね」
「お茶の香りって、ホッとしますよね」
少し緊張しているように見えた琥珀の表情が少しだけ緩む。それでもまだ、憂うように伏せ気味になっている彼と視線は合わない。しばらく世間話をしてみたが、その顔が和らぐことはなかった。話したいことはあるようだが、彼が自分から切り出すことは難しそうだ。そこで、紗枝はそっと促してみることにした。
「それで、今日はなにかお話したいことがあっていらしたのでは?」
「え? ……ああ、はい、その――」
琥珀は躊躇うように口を閉じ、ちらりと窺うように下から見てきた。安心させるように微笑みかけると、彼は静かに口を開いた。
「実は、縁談を……断りたいのです」
紗枝は、え、という言葉を間一髪飲み込んだ。
――結婚したいという話じゃないの?
まさかの、想定していたものとは真逆の相談に紗枝の目は点になる
別に牡丹庵は結婚相談所ではない。縁結び処と言われてはいるが、恋愛に関する相談の全般を受けている。別れたいのに別れられないというような類の相談があってもおかしくはない。しかし今までに妖怪たちからそういう種類の相談を受けたことのなかった紗枝は、予想外の事態にうまく頭が働かなくなっていた。表情だけ営業用の笑みを浮かべたまま、ぽつぽつと話し出した琥珀のことを見つめる。
「里の長老に勧められた見合いで……断り切れずにもう既にお会いしていて、その時の感触はお互いに悪くはなかったと思うのです。お相手は素晴らしい方で、不満などあるはずもありません。なのですが……どうしても、気持ちが乗らないのです。こんな気持ちのまま、結婚を前提とした逢引きを続けるのも不誠実に思えて、心苦しくてならなくて」
整った顔を伏せた琥珀は、湯呑みを両手で包んで力をこめた。
「その昔、私が若かった頃」
――琥珀さん、まだ20半ばに見えるけど、おいくつくらいなのかしら。
妖怪の年齢は、人間の中で育ってきた紗枝には予想が難しい。いつまでも成長しない子供のままの種族もいるし、獣型になってしまうともう全く予想が出来ない。
「人間の女性と、恋をしたことがあるのです」
驚いて目を丸くすれば、視線を上げた琥珀は小さく頷いた。
「ですが、彼女にとって、彼女の周囲の人間にとっては、私はただの化け物にすぎませんでした。あんなに愛し合っていたのに、いえ、愛し合っていたと思っていたのに、最後は、騙されて、売られて……」
言葉の終わりは、かすれて消えた。紗枝は、ただ黙って彼の話に耳を傾ける。
「私が、妖狐であったのなら、いえ、人間として生まれていたら話は違っていたのかもしれない、と。あの時ほど自分の生まれを憎く思ったことはありませんでした。やはり、ただの化け狐では――」
彼の言葉は自分を責めるものになっていく。言葉が続かず消えていったところで、紗枝は琥珀に声をかけた。
「琥珀さんは、まだ傷付いたままなんですね。誰だって、過去に傷を負ってしまったことに対して、次の一歩を踏み出すのは難しいですもの」
「………………」
彼は黙ったまま、悩ましい顔で視線を下げている。
「断ってしまったら、紹介してくださった長老さんやお相手にとって不誠実になるのではないか、と思っていらっしゃるんでしょうか?」
「……私がこの縁談を断ったら、長老はどう思うでしょう。私のような者には、もう二度とこのような良い縁談は巡ってこないのではないか、とも考えます。あちらから断られたわけでもなく、むしろ楽しかったと言っていただけているのに、私だけがこのように後ろ向きで……こんな私からお断りを入れるのは烏滸がましいですし、しかし先がないだろう関係を続けるのはお相手の時間を奪うだけです。私は、どうしたらいいのか」
湯呑の中のお茶が波立っている。小さく震える琥珀の指先は、強く湯呑に押し付けたせいで白くなっていた。
「せっかくの好機を、過去のつまらぬ傷のせいにして台無しにしているのかもしれない。そう思うと、胸がざわついて……消えてしまいたいと思うのです」
彼の顔から、穏やかな表情が完全に消えている。それ以上の言葉を失った琥珀は、ただ静かに深く俯く。その肩はわずかに丸まり、頼りなく見えた。彼は、自らの内にある葛藤にどうすることもできないもどかしさを感じているようだ。その名の通り琥珀色の美しい瞳は、遠い昔の記憶に囚われ続けているようだった。
「どちらか片方でも心を偽って一緒にいることは、お互いにとって幸せなことではないのではないでしょうか。今心苦しいと感じているのは、琥珀さんの心が誠実であるなによりの証拠だと、私は思います」
その言葉に、やっと琥珀は顔を上げた。自信を持ってください、と言えば、琥珀の瞳にわずかに光が差す。
妖怪同士の間には明確な格のようなものが存在していて、上位の存在に対しては色々と言いにくいこともあるようだ。琥珀の話しぶりからすれば、長老も見合い相手も、化け狐寄りも格が上の妖怪なのだろう。しかし、紗枝は人間で、ここに相談しにきてくれた琥珀に寄り添いたいというのが一番大切で正直な気持ちだった。それに、若い妖怪たちは年寄りほどは格について気にしていない、と顔見知りの猫又と烏天狗から聞いていた。
「かつての恋の傷は、あなたが思う以上に深くあなたを縛り付けているのかもしれませんね。騙されて裏切られた経験は、誰にとっても耐えがたいものですよ。好意を寄せてくれているのかもしれない相手の心を裏切って傷つけたくないと思えばこそ、今の縁談を義務的に受け入れることが出来ないんじゃないですか?」
「あ……ああ……それは、そう――なのかもしれません」
ぽつり、と呟くように答えると、呆けたような顔の琥珀は湯呑をテーブルに置いた。かたん、と静かな音がふたりきりの空間に響く。
「心の傷を認めることは、弱いことでも逃げでもありませんよ」
「…………」
逃げではない――と呟いて、琥珀は何度か瞬きを繰り返す。今まで何度も、彼は自己を卑下してきたのだろう。しかし、その言葉は初対面の人間の女にやんわりと拒否された。自身の言葉が、どれだけ真っ直ぐに届くかは紗枝にもわからなかった。ただ、自分なりに彼と誠実に向き合って、言葉を返すだけだった。
「それに、結婚って誰かの期待に応えるためだけにするものではないんじゃないかと思うんです。心から幸せになりたいと願って、相手を幸せにしたいと願って。お互いにその想いを分かち合える相手と結ばれることなんじゃないか、って、私は思っています」
「誰かの期待に応えるためではない……?」
まるで初めて知った言葉のようにその一節を繰り返した彼に、紗枝は静かに頷く。
「長老さんだって、琥珀さんとそのお相手の方に幸せになってもらいたいと思ったからこそ、引き合わせようと思ったんじゃないですか? だとすれば、あなたが苦しんでいる今の状況は、誰も望んでいないということになります。周囲の期待や過去の傷に縛られずに、この先をどう生きたいのか、ゆっくり考えてみても良いんじゃないでしょうか。自分の心に正直に選んだその決断は、あなた自身の幸せのための一歩となると思います」
また下を向いてしまった琥珀はしばらく口を開かなかった。紗枝は、彼が自身の中で整理がつくまで、ただただ黙ってその様子を見つめる。数分して顔を上げた彼の瞳には、先程までの迷いはほとんどないように見えた。琥珀は小さく、しかししっかりと頷いてから口を開いた。
「……少し、考えてみようと思います。自分が、どうしたいのか」
そう言って微笑んだ琥珀の表情には、ほんのわずかだが長年の重荷から解放されたような気配が漂っていた。
数日後「結局、お断りしました」と再び紗枝の元を訪れた琥珀は、すっきりとした顔をしていた。初めて会った時よりも穏やかな表情に、紗枝は嬉しくなる。
「お相手も長老も、意外とすんなり受け入れてくれてホッとしました」
背中を押してくださってありがとうございます、と彼は目元を緩めて頭を下げる。そんな彼の姿を見て、先日から気になっていたことを紗枝は口にした。
「ところで、ちょっとお伺いしたいんですけど」
「なんでしょうか」
「私も、人間の女なんですけど。そんな私に、恋愛の相談事だなんて、嫌だと思わなかったんですか?」
正直に聞いてみると、琥珀は意味がわからないというような顔をする。
「あの、人間の女、なんですけど」
「ええ。ですが、紗枝さんは彼女ではありませんから。雰囲気も似ても似つきませんし」
なるほど、と紗枝は苦笑いを浮かべる。その辺りはただ種族・性別だけが一緒だというだけで同一視しない程度の分別はあるようだ。
しかし、すぐに琥珀の目元には微かな陰りがさす。
「――あれだけ素敵な方なのですから、私などと結婚しなくても、良い相手がすぐに見つかりますよね?」
その問いかけは、自己を卑下する言葉とは裏腹に、「自分に断られたら、彼女の人生は不幸になってしまうのではないか」と信じているかのように聞こえた。紗枝は、その矛盾に気づいて、思わず言葉に詰まる。自分を「ただの化け狐」と見下しながら、己の決断が他者の未来を大きく左右するほど重要だと考えている。そのギャップがあまりに滑稽だった。
「私には、もちろん、と言い切ることはできません。それらはすべてご縁の話ですもの」
紗枝は、ほんの少しの沈黙の後に、はっきりと答えた。
「縁談が成就しなかったのは、単にその方と琥珀さんの間にご縁がなかったというだけの話です。それに、琥珀さんと結婚していたからと言って、お相手が幸せになれたかどうかもわかりませんからね」
そう言って笑いかけると、彼の表情に少しだけ戸惑いが浮かんだ。琥珀は、真意を窺うように、じっと紗枝の瞳を見つめ返す。
「自分と結婚した相手は必ず幸せになる、なんて考えるのがおかしな話だと思いませんか? 結婚というのは、一方的なものじゃありません。お互いの意思を尊重し、異なっている部分は歩み寄って、共に歩んでいくものですよ」
「あ……」
じわじわと目元を赤くした琥珀は、すみません、と小さな声で呟いた。
「琥珀さんも、良いご縁と巡り合うことが出来ると良いですね」
「……はい」
彼の口元に、今度は心からの、穏やかな笑みが浮かんだ。
「――いつか、その日が来るのを楽しみにしようと思います」
その言葉は、これからの未来に琥珀が前向きになり、期待を寄せ始めた証のように思える。
妖怪たちの心に寄り添いながら、今日も紗枝は、静かに、優しく、縁を紡いでいくのだった。
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