第46話 赤福と、未来の地図
伊勢神宮の広大な森から、おかげ横丁の賑わいの中へと戻ってきた時、二人は、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚に陥った。観光客の笑い声、食べ物の匂い、土産物を売る威勢のいい声。神域の静寂とのギャップが、現実感を曖昧にさせる。
「…腹、減った」
シオンが、子供のように呟いた。その一言で、二人の間に流れていた厳かな空気が、ふっと和らぐ。
二人は、川沿いの縁台に腰を下ろし、名物の赤福餅を食べた。滑らかなこし餡の優しい甘さが、歩き疲れた体に染み渡る。
「美味いな、これ」
「うん」
五十鈴川のせせらぎを眺めながら、二人はしばらく、無言で餅を頬張っていた。それは、心地の良い沈黙だった。同じ場所で、同じものを食べ、同じ風に吹かれている。ただ、それだけのことが、二人の間の距離を、静かに、しかし確実に縮めていた。
「で、次はどうすんの」
食べ終えたシオンが、口の周りについた餡を拭いながら尋ねた。
「西へ。紀伊半島を、ぐるっと回ってみようかと思ってる」
彼は、リュックから、使い古した道路地図を広げた。スマホの地図アプリも便利だが、彼は、紙の地図で、道と土地の繋がりを、俯瞰で眺めるのが好きだった。
「紀伊半島…また、山ばっかじゃん。物好きだね、あんたも」
「熊野古道がある。昔の人が、祈りながら歩いた道だ。そこを、自分の足で歩いてみたい」
彼の指が、伊勢から、熊野、そして高野山へと続く、複雑な海岸線と山道をなぞっていく。
シオンは、その地図を、じっと覗き込んでいた。そして、彼の指が辿る道を、自分の指で、そっと追いかけた。
「…ここ、行ってみたい」
彼女が指差したのは、紀伊半島の南端、潮岬だった。本州最南端の地だ。
「なんで?」
「なんとなく。一番、端っこまで行ってみたい。そこから、何が見えるのか」
その言葉は、彼が旅に出た時の、漠然とした衝動と、どこか似ていた。世界の終わりを眺めていた彼女が、今、物理的な世界の「端」に、興味を抱いている。それは、彼女の中で、何かが変わり始めている証なのかもしれない。
「じゃあ、そこを目指そうか」
彼は、そう言って笑った。一人で立てていた旅の計画が、今、彼女の希望によって、新しいルートを描き始める。それは、彼にとって、全く煩わしいことではなかった。むしろ、予測不可能な要素が加わることに、わくわくしている自分に気づいた。
彼の物語の運転手もまた、旅の途中で、乗せた客の気まぐれによって、予定外の道へとハンドルを切ることがあるのかもしれない。その方が、物語は、ずっと面白くなる。
二人は、地図を畳み、立ち上がった。
次にヒッチハイクをする場所を探して、歩き出す。
「なあ」と、シオンが彼の隣で言った。
「あんたの旅、いつ終わるの? 鹿児島に着いたら、終わり?」
「…分からない」と彼は答えた。
「前は、そう思ってた。でも、今は、違うかもしれない。この旅は、俺が、書くべき物語を見つけるための旅だ。だから、その物語が完成するまで、終わらないのかもしれない」
「ふうん。じゃあ、私も、世界の終わりを見届けるまで、付き合ってやろうかな」
シオンは、悪戯っぽく笑った。その横顔を、西日が優しく照らしていた。
二人の未来の地図は、まだ、真っ白だ。だが、その余白には、これから始まる、無数の物語の可能性が、満ち溢れていた。
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