第31話 根を張る人々


 鹿児島への旅を中断し、東京に「留まる」と決めたものの、彼には行くあてがなかった。ホテルに連泊するほどの金はない。ネットカフェを転々とする日々が始まった。昼間は、ひたすら歩いた。これまでのように、誰かの車に乗って景色を眺めるのではない。自分の足で、この街のディテールを、一つ一つ拾い集めていく。


 彼は、山手線の駅を、一駅ずつ降りてみることにした。

 新橋では、ガード下の居酒屋から漏れる、サラリーマンたちの陽気な喧騒と、疲れた愚痴を聞いた。彼らは皆、組織という大きな歯車の一部として、日々摩耗しながらも、家族やささやかな楽しみのために働いている。

 巣鴨では、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる地蔵通り商店街を歩いた。赤い下着を売る店、塩大福の店。ゆっくりとした時間の中で、老いた人々が、互いの体を気遣い、昔話を語り合っていた。そこには、都心とは違う、確かな共同体があった。

 高田馬場では、様々な国の言葉が飛び交っていた。夢を追って日本に来た留学生たちが、安い定食屋で、故郷の料理の味を懐かしんでいる。

 彼は気づいた。東京は、決して一つの巨大な匿名性の塊ではない。それぞれの街に、それぞれの顔があり、そこに根を張り、懸命に生きる人々の、無数の物語が息づいているのだ。彼らは、決して根無し草ではない。コンクリートの隙間に、アスファルトを突き破って、たくましく根を伸ばしているのだ。


 彼は、ネットカフェのブースで、ノートパソコンを開いた。そして、旅に出てから初めて、本格的に「東京」を書き始めた。それは、新宿の摩天楼や、渋谷のスクランブル交差点といった、記号的な風景ではない。

 新橋のサラリーマンが、酔ってネクタイを緩める仕草。

 巣鴨のおばあちゃんが、杖を握る手の皺。

 高田馬場の留学生が、スマホの写真を見ながら浮かべる、寂しげな笑顔。

 彼が自分の足で歩き、目で見て、耳で聞いた、名もなき人々の、小さな、しかし確かな生の輝きを、彼は言葉で彫りつけていった。

 それは、ミサトの和紙のように、彼らの人生を静かに「支える」ための文章だった。

 書くことに、迷いはなかった。キーボードを打つ指は、かつてないほど滑らかだった。


 数日後、彼はミオに連絡をした。

 『面白い人たちを見つけた。よかったら、話を聞いてくれないか』

 二人は、下町の気配が残る谷中の喫茶店で会った。彼は、自分が書いたばかりの文章を、プリントアウトして彼女に渡した。

 ミオは、黙って、真剣な表情で読んでいた。彼女がページをめくる音だけが、店内に響く。

 全てを読み終えたミオは、顔を上げて、まっすぐに彼の目を見た。

 「すごい…。私、東京に住んでるのに、何も見てなかったんだなって思った。君の文章を読むと、いつも歩いてる街が、全然違う場所に見える」

 そして、彼女は少しだけはにかんで、言った。

 「旅をする前の君の文章も、好きだったけど…。今の君の言葉は、すごく、優しいんだね」

 その一言が、彼の胸の奥に、温かい光を灯した。

 優しい言葉。それは、彼がこの旅で、無意識のうちに探し求めていたものなのかもしれない。自分のためではなく、誰かの人生に寄り添い、その存在を肯定するための言葉。

 彼は、ミオの前で、初めて、心の底から笑うことができた。

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