第21話 灯台の意志
夜の闇の中、岬の突端に立つ白い灯台は、巨大な墓標のように、静かに俺たちを見下ろしていた。
夏に来た時とは違い、まとわりつくような熱気はない。代わりに、肌を刺すような秋の夜風が、俺と
道中、俺たちはほとんど話さなかった。
だが、繋いだ手は、一度も離さなかった。
これから対峙するものが、どれほど巨大で、得体の知れないものであっても、二人でなら乗り越えられる。そんな、言葉にならない覚悟が、互いの手のひらの温度から伝わってきた。
「……行こう」
錆び付いた鉄の扉を、俺は、あの夏よりも力強く押し開けた。
ぎぃ、と軋む蝶番の音が、不気味に響き渡る。
灯台の内部は、相変わらずひんやりとした空気に満ちていた。だが、以前感じたような、ただの廃墟の静けさとは、明らかに何かが違っていた。
壁に染み付いた潮の匂いに混じって、どこか懐かしいような、甘い花の香りがする。
そして――。
「……何か、聞こえない?」
螺旋階段に足をかけた灯が、不安げに囁いた。
俺も、耳を澄ます。
それは、歌と呼ぶにはあまりにも微かで、旋律も定かではない、優しいハミングのような音だった。女性の声のようにも、たくさんの子供たちの声のようにも聞こえる、不思議な響き。
まるで、この灯台そのものが、呼吸をしているかのような。
俺たちは、導かれるように、その音のする方へと、螺旋階段を登っていった。
階段を登るにつれて、奇妙な現象は、さらに顕著になった。
壁の、染みだらけだったはずの場所に、ふと、陽炎のように、映像が映り込むのだ。
古い港町の、活気に満ちた風景。
大漁旗を掲げた漁船団。
夏祭りで、楽しげに笑う、浴衣姿の人々。
それは、この町が積み重ねてきた、膨大な「記憶」の断片のようだった。
この灯台は、ただの建物じゃない。
この町の人々の、喜び、悲しみ、そして、祈り。その全てを吸い込み、記録し続けてきた、巨大な記憶装置のような存在なのだ。
俺は、直感的にそう理解した。
◇
最上階。
かつて、巨大なレンズが光を放っていた展望室。
そこに辿り着いた俺たちは、息を呑んだ。
部屋の中央、何もないはずの空間に、無数の光の粒子が、星屑のように舞っていたのだ。
そして、その光は、ゆっくりと、一つの形を成そうとしている。定まった形はない。ただ、人の想念のような、曖昧で、しかし、確かな「意志」を持った、光の集合体。
あのハミングは、ここから聞こえてきていた。
「……お前が、やってるのか」
俺は、まるで催眠術にでもかかったかのように、光に向かって、語りかけていた。
「灯を、守っているのは。この世界を、歪めているのは、お前なんだな」
応えは、言葉ではなかった。
俺と灯の脳内に、直接、膨大なイメージと感情が、洪水のように流れ込んできたのだ。
――嵐の夜、船の上から、陸の光を求めて祈る船乗りの、家族への想い。
――運動会の前日、晴れることを願って、てるてる坊主を吊るす、子供たちの純粋な祈り。
――そして、その無数の願いの中に、ひときわ強く、鮮烈な感情が、流れ込んでくる。
『助けて』
『死にたくない』
川の濁流に飲まれながら、必死に手を伸ばす、二人の少女の、生存への渇望。
そして、最後に、俺自身の、絶望に満ちた祈りが、脳裏に響き渡った。
ループの中で、何度も、何度も、繰り返した、血を吐くような願い。
『灯に、生きていてほしい』
『もう、誰も失いたくない』
『神様、お願いだ。彼女を、助けてくれ』
「……ああ」
俺は、全てを悟った。
目の前の光の集合体――この灯台の「意志」は、悪意など持っていなかった。
ただ、この場所に注がれた人々の「願い」を、忠実に叶えようとしてきただけなのだ。
そして、あの夏、俺たちが運命を捻じ曲げた時。
「綾瀬灯の死を、回避したい」という俺の絶望的な願いは、美月や美咲の強い想いと共鳴し、この「意志」にとって、最優先で実行すべき、絶対的な命令となってしまった。
灯を苦しめている呪いの正体は、世界のバグなどではない。
俺自身の、「願い」そのものだったのだ。
「……そんな」
隣で、灯が、呆然と呟いた。
俺は、光に向かって叫んでいた。
「もう、やめてくれ! 俺は、こんなこと望んでない! 灯が幸運になるために、誰かが不幸になるなんて! そんな未来、俺は望んでないんだ!」
だが、光は、揺らめくだけで、応えない。
一度走り出してしまった、暴走機関車のように。一度インプットされた最優先命令を、ただ、実行し続けているだけ。
俺の、新しい願いは、もう、届かない。
どうすればいい。
どうすれば、この暴走を止められる?
俺が、焦燥感に駆られた、その時。
再び、俺たちの脳内に、新たなイメージが、流れ込んできた。
それは、ずっと昔の光景。
白髪の、灯台守らしき老人が、この場所で、何か厳かな「儀式」を行っている。
荒れ狂う嵐の夜。彼は、灯台の光に、何かを「奉納」することで、嵐を鎮めているようだった。
そして、その「供物」が、何であるか。
最後のイメージが、俺たちの脳裏に、鮮明に焼き付いた。
――俺が、いつも首から下げている、一台の古いカメラ。
――そして、あの夏の日、俺が撮った、屈託のない笑顔で、こちらを見つめている、灯の写真。
「……そういう、ことか」
俺は、震える声で呟いた。
暴走した命令を止めるには、それを上書きするほどの、新しい「願い」の形が必要なのだ。
『灯に、ただ、生きていてほしい』という、過去の、生存だけを求めた、必死の祈りではなく。
『たとえ、この先、何が起こるか分からなくても。不確かで、危険に満ちた、運命の定まらない世界だとしても。俺は、綾瀬灯と共に、笑って生きていきたい』
という、未来への、より成熟した、覚悟の祈り。
その祈りを、「写真」という形にして、この灯台に奉納する。
それしか、この呪いを解く方法は、ないのかもしれない。
俺は、自分の首にかかったカメラを、そっと握りしめた。
隣で、灯が、俺の顔を、じっと見つめている。
解決への、あまりにも細く、しかし、確かな一筋の光が、今、俺たちの目の前に、示されたのだ。
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