0038. 姫御子の革命計画書
私の壮大な「令和式産業革命計画書」を前に、私は次のステップに進んでいた。
計画書と呼ぶにはあまりに拙い。二歳児の私が描いたそれは、人が見ればただの落書きにしか見えないだろう。歪んだ丸や線が不規則に並び、ところどころに墨の染みが滲んでいる。
だが、私にとってはこの一枚の和紙こそが未来への羅針盤だった。その一つ一つの記号と絵のような文字にはこの安房の国を、ひいては日ノ本を根底から変えるだけの力が秘められていると私は固く信じていた。
自らが書き出したそれを前に私は満足のため息をついた。まるで前世で巨大プロジェクトの企画書を書き上げた時のような、疲労感と高揚感が入り混じった不思議な感覚だった。
障子から差し込む柔らかな光が、私の小さな傑作を照らし出している。この静かな部屋で、まだ誰にも知られず、世界を変える企てが始まっているのだ。その事実に密やかな興奮で身が打ち震えるようだった。
次の段階は具体的なタスクの洗い出しとそれらを実行する場所の仕分けだ。
(農業関連だけでも、やることが山積みだな……。でも、これが全ての礎になる)
私は新しい和紙の上に、墨を含ませた筆で思いつく限りのアイデアを書き出していく。まだ自由の利かない小さな手で一文字ずつ確かめるように。指先の力が足りず、筆先が震える。前世で使い慣れたボールペンやキーボードの軽快なタッチとは比べ物にならないほど不便だが、一画一画に魂を込めるようなこの作業は不思議と私の心を落ち着かせた。これは単なるタスクリストではない。未来を創造するための神聖な儀式のようなものだ。
【椎茸栽培】
まずはこれね。食は文化の基本だから。乾椎茸は最高の保存食であり、極上の出汁にもなるはず。この時代の食生活は、良く言えば素朴、悪く言えば単調なのよね。塩と味噌が味付けの基本で旨味の概念はまだまだ乏しい。そこに椎茸のグアニル酸という旨味爆弾を投下すれば、人々の食文化のレベルは根底から覆るんじゃないかしら。
ただの野菜の煮っ転がしが、料亭の一品のような深い味わいになる。兵士たちが口にする味気ない兵糧ですら、椎茸の戻し汁ひとつで故郷の味を思い出させるご馳走に変わるかもしれない。
食の充実は文化の成熟と人々の幸福に直結すると思う。まさに食の革命の第一歩だわ。飢饉の際の保存食という実利だけでなく、日々の食卓に笑顔をもたらす力があると思っている。
【石鹸用のお花栽培】
次に衛生ね。人の命を守る、最も重要で地味な分野。衛生観念の向上は疫病を防ぐ最も効果的な手段よね。この時代、死因の上位は怪我からの化膿や些細な病の悪化、そして見えざる敵である感染症なのよね、聞いている限り。
破傷風、赤痢。前世では過去の病となったそれらが、ここでは日常的に人々の命を奪っている。清潔な体は健康な住民を作り、国力に直結する。
しかし、いきなり「体を洗え」と言っても、文化として根付かせるのは難しいのよね。そこで、まずは香り高い花から作った石鹸という、付加価値の高いものから普及させたいと考えている。
花の香りに包まれる心地よさを知れば、体を清めるという行為が義務ではなく喜びに変わるはずだ。
母上や侍女たちが、花の香りのする石鹸を手に取って喜ぶ顔が目に浮かぶわ。彼女たちの喜びが、やがて国全体の衛生文化へと繋がっていく。その最初のきっかけを私が作ろう。
【綿花栽培】
衣食住の「衣」。命を守るための最後の砦。麻や葛布が主流のこの時代、柔らかく暖かい木綿は人々の生活を劇的に改善すると思う。
満足な暖房もないこの時代、特に冬の寒さは、体力と気力を容赦なく奪っていくから、夜の冷込みは死に直結する。前世の感覚では想像もつかないほど、冬の夜は過酷なものだと肌身に感じている。
夜中に聞こえてくる咳の音、壁の隙間から吹き込む風の冷たさ。赤子や老人の命を繋ぎ、凍える兵士の士気を保つためにも、衣類の改革は急務なのよね。
ふわふわの綿に包まれる暖かさを早くこの国の人々に届けないと。それはただ暖かいだけじゃない。生きていることを実感できる、優しい温もりだわ。
【塩水選】【正条植え】
そして、国の根幹を支える農業生産性を飛躍的に向上させるための基礎技術。良い種籾を選別し、苗が効率よく育つように等間隔で植える。ただそれだけのことで、収穫量は見違えるほど増える。収穫量が安定すれば、みんなの心にも余裕が生まれるはず。
だって、明日の食糧に怯える日々から解放されれば、人々はもっと先の未来を考えられるようになるからね。子供に文字を教えようとか、新しい道具を作ってみようとか。そうした心の余裕こそが、文化や技術が発展するための最も重要な土台作りよね。
国が豊かになるというのは、蔵に米が満ちることだけじゃない。人々の心に未来を夢見る余白が生まれることなんだから。
【肥料開発】【農具改良】……。
次から次へと浮かぶアイデアを書き連ねながら、ふと前世の記憶が鮮明に蘇る。締め切りに追われ、エナジードリンクを片手に、ホワイトボードにタスクを書き出しては消し、進捗をガントチャートで管理し、週明けの定例会議ではクライアントに頭を下げ……。
あの頃は、ただ数字と納期に追われるだけの無機質な日々だと思っていた。だが、こうして何もないところから国づくりという壮大なプロジェクトを立ち上げてみると、あの経験が骨の髄まで染み込んでいることを実感する。
リスク管理、リソース配分、工程管理。あの無味乾燥に思えた知識が、今、この世界で何万人もの命を救うための武器になる。そう思うと、あの頃の自分を少しだけ褒めてあげたくなった。
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