0002. ???が部屋の前で待っていた
ときどき毒を吐きつつ、どうにか仕事を終わらせ、冷たい夜風に吹かれながら家路につく。連続ログインだけは死守しなければ、どうにか、この時間なら維持できそうだと思いながら、私は自分の住むマンションの廊下を歩いていた。
そして、見つけてしまった。私の部屋のドアの前に、変な格好をして佇む人影が待ち構えているのを。
時代劇の姫君のような着物を着ているのに、その生地は虹色に光るシルクのようで、どこかSF的だ。闇に溶け込むような黒髪の女性が、音もなく、そこに立っていた。
「……あっ、あの、すみません」
イベントに参加できなかった苛立ちと、深夜の見慣れぬ来訪者への恐怖がごちゃ混ぜになる。
「人の部屋の前で何をしているんですか? 部屋に入れないどいてもらえますか。こんな非常識な時間に……警察呼びますよ!」
八つ当たりだとわかっている。イベントに参加出来なかったイライラと課長、部長へのストレスを強い口調でぶつけてしまった。けれど、こんな時間に人の部屋の前に待ち伏せするように立っている方が、どう考えたって悪い。
「おっ、ようやく帰って来たか。待ちくたびれて、ここから強制的に魂だけ引き抜いて、強制転生させるところじゃったわ。ヌシ、働きすぎじゃぞ」
彼女はこともなげに、古風な口調で言った。その声は、鈴の音を奏でるように美しいのに、まったく感情が乗っていない感じがする。
「へっ、強制転生?何、変な事言ってるんですか! な〇〇小説の読みすぎじゃないですか?バカ言わないで いいからどいてください。私はあなたと話をしている時間はないんですよ、イベントに参加出来なかったけど、狐火ちゃんをモフるっていう大事な使命があるんです!ジャマです」
「わらわはヌシに用がある。……まあよい、早う、入れ、話は中で聞け。まぁ、勝手に入るがの」
言うが早いか、彼女は私の部屋のドアノブに手をかける。カチャリ、と鍵が開く音がした。朝、私が二重ロックしたはずの鍵が。鍵締めて部屋を出たはずなのに、どうやって、開けたの?
「なっ……! ちょっ、ちょっと、人の家に勝手に入らないで! 不法侵入!目の前で遠慮なく窃盗、強盗に入るんじゃない!」
「些細なことじゃ。さあ、入れ」
部屋の主である私より堂々とした態度で、彼女は私を部屋に招き入れる。私はなぜか、その言葉に抗うことができず、ふらふらと自室へ足を踏み入れ、イスに座ってしまった。
「さて、単刀直入に言う。ヌシにはこれから、戦国時代へ転生してもらう。拒否権は無いぞ」
「……は? はああああ!? 何言ってるの、あなた。正気!?頭、大丈夫??イカれてない!」
彼女のすました顔での言葉に思考が止まり、大声をあげて、つい下手なツッコミをしてしまった。
「わらわはいつだって正気じゃ。クトゥルフのようなものと一緒にするでない。そんな事より、ヌシには戦国時代に転生してもらうのじゃ、正確には、ヌシらの歴史とは少しだけ枝分かれした並行世界の戦国時代じゃがな。ヌシらの過去の戦国時代にタイムリープするわけではないので、タイムパラドックスの心配はないゆえ、安心するのじゃ」
もういろんな情報がありすぎて、何言ってるのか、理解が追いつかない!クトゥルフ、並行世界、タイムリープ。矢継ぎ早に放たれる単語が、残業で疲れた脳をかき乱す。何を言ってるの?私は、何を聞かされてるのかな?これは夢だ。きっとそうだ。残業し過ぎて、明晰夢を見ているのか!バチバチン、私は、両頬を自分で叩いてみたり、思い切り頬をつねってみたが、目の前の彼女は涼しい顔でこちらを見ているだけで消えなかった。
「ヌシは、いきなり自分の顔を叩くとは、酔狂な趣味をしておるのぉ〜、最近の世は変わっておるのぉ〜、それが今の時代の流行りなのかぁ」
「やぁ、いやぁ、違うの、そんな趣味はありません。世間一般でも、普通にそんな趣味を持っている人は少ないです!っていうか、そんな話をしてる場合じゃないわ!どういう事ですか!クトゥルフ!並行世界!戦国時代!タイムリープ!って、どういう意味ですか?」
「なんじゃ、ヌシは、クトゥルフも並行世界も戦国時代もタイムリープも、知らんのかぇ」
「クトゥルフは、クトゥルフ神話に出てくる神で、ヌシの世界では20世紀アメリカで創作された神話の神とされておるが、実在するのじゃ!並行世界は、ヌシらの世界とは、別世界の事じゃ、ヌシらは、異世界と言ったほうがよいかの、戦国時代は……」
少しニヤけた顔して言う態度から、ゼッタイに私のことをイジって遊ぼうとしている。狐火ちゃんをモフれないこの時間と課長、部長へのストレスがピークになる。
「ちょっ、ちょっ、ストップ!と言うか、……もういいです。一体、何が目的なんですか。早く説明してください。私の狐火ちゃんタイムがどんどん短くなるんです。早く狐火ちゃんをモフって、一緒に遊んで、寝たいので」
ストレスと疲労と混乱で、もはや感情が一周して冷静になってきた。彼女が部屋に居るのも違和感がない、普通、知らない人を初対面で自分の部屋に入れるなんてしない。何か心理的な誘導や催眠術にでもかかったのかな?
「つまらんヤツじゃのぉ、ヌシは。こういうお約束のやり取りは、転生モノの様式美で無いのかぇ〜」
「そんな様式美、知りません! とっととしゃべる、話す、説明する!」
「せっかちなやつじゃのう。全部一緒の意味じゃが、まぁ、ええかのぉ、そろそろちゃんと説明のじゃ」
彼女はくすりと笑うと、懐から取り出した扇子をパチン、と小気味よく開いて、閉じた。
その瞬間、世界から色が抜き取られ、音が消えた。
視界から全ての色彩が消え、モノクロームの濃淡だけが部屋を支配する。エアコンの作動音も、窓の外を走る車の音も、階下の生活音も、すべてが消え失せた。
耳を圧するほどの無音の中、私の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます