この恋をifにして

@yozorahosi

プロローグ

「別れよう」

 淡々と、でもできるだけ正直に絞り出した声は、卒業式を終えたばかりの校舎裏に妙に響いた。

「……えっ?なんで。どうしたの?なにかあった?」

 春香はるかは、制服の袖を指で握りながらそう言った。表情はいつも通りだった。笑おうとしている。でも、頬の筋肉の動きが少しだけぎこちない。

「デートはいつもお互いの家で、どこにも出かけられない。それに、ドタキャンも多いしで俺にはもう耐えられない……正直、一緒にいても楽しめない」

「ドタキャンは……ほんとうに、ごめん。最近は特に体調が安定しなくて」

 彼女はゆっくり視線を落とした。

 いつからだろう。春香が体調うんぬんの話でうんざりするようになったのは。

「でもさ、付き合う前に外出はなるべく控えるよう、主治医から言われてるって話したよね。それでも好きなんだって、悠真ゆうま、言ってくれたじゃん」

「……うん。でも……俺は、たぶん、もっと普通の恋愛がしたいんだと思う」

 彼女は顔を上げた。目が細く揺れていた。でも泣いてはいなかった。ただ、風に煽られる旗みたいに、静かに震えていた。

「普通って、なに」

「街で待ち合わせしてさ、適当にカフェ入って、映画観たり、くだらない喧嘩したり。夏には花火大会行って、冬にはコートのポケットに手入れたり。そういうのに、憧れた」

 春香は深く呼吸をした。

 それから言った。

「つまり、私の病気が重荷なんだね」

「違う、そうじゃない」

「違わないよ」

 言い切った彼女の声は、まるで風のない日に落ちる雨粒みたいに、まっすぐに落ちた。

「いろんなこと言ってるけど、全部病気に行き着くじゃん。私が健常者だったら、悠真は別れようなんて言わなかった」

「そんなこと、ない」

「なくないよ」

 彼女は歩み寄って、僕とわずか数十センチの距離まで来た。

「病気でも一緒にいたいって言ってくれたとき、ほんとに嬉しかった。勇気出して付き合ってみようって思った。誰かを好きになることが、こんなに怖いなんて知らなかったけど、それでも…………信じたんだよ?」

「……」

「普通の恋愛ができない私には、きっと誰かを好きになる権利すらないんだろうね」

「そんなこと……」

「言わないで。優しい言葉なんて、今さらいらない」

 それは拒絶だった。

 僕はなにか言おうとした。でも口が動くだけで、声がついてこなかった。

 春香はそれを見て、かすかに笑った。

「こんなことで別れるくらいなら、最初から付き合わなきゃよかったね」

 心臓を、小さな鉛の手で握られたような痛みだった。

 指先がかすかに震わせながら、拳を握りしめることしかできなかった。

 病気があっても、好きだったのは本当だ。一緒にいたいと思ったのも嘘じゃない。

 でも、それでも、俺には一緒にいることに耐えられなかった。俺だけが悪い雰囲気にも。

 言い返したかった。言いたいことなんて、山ほどあった。でも、たぶん、口を開いたら取り返しのつかないことを言ってしまう。

 そういう予感が、すでに喉元まで上がっていた。

「……今までありがとう」

 それだけを搾り出して、背を向けた。友達が待つ教室に戻るために。

 でも、一歩、足を踏み出したそのときだった。

「わかんないよね。好きなときに出かけられて、病気の心配もしなくていい。制限も我慢もない。悠真みたいなには、私がどれだけ辛いかなんて、一生わからないんだよ」

 春香の声は小さかった。でも、やけに遠くまで響いた。

 その瞬間だった。

人生で初めて、プツンと張り詰めた糸が切れた感覚を味わった。

「そうだな!病弱な春香の気持ちなんて、一生わからないし、分かりたくもない!」

 声が喉を焼いた。

 心よりも先に口が動いていた。

 そしてその言葉は、投げつけた瞬間に、自分の内側も砕いていた。

 後悔はすぐに追いついてきた。早すぎて、逃げ場もなかった。

「……そう、だよね」

 春香はそう呟いて、僕を見つめた。

 あのときの顔が、今でも脳の内側にべったりと張りついている、何年経っても。

 毎年、春になると思い出す。

 同じ大学に受かったのに、入学式に姿を見せなかった春香は、今どこで、なにをしているんだろうと。

 その問いに、答えはない。ただ風だけが通り過ぎていく。

 桜の木の下で、なにもなかったふりをしながら、俺は部活の看板を抱えて大学の門に立っていた。

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