ゴミ箱の猫少女と僕の実存主義

プルム破壊神

第1話:猫との邂逅

あの頃の私は、「渡辺悠人」というラベルを貼られた空っぽの箱だった。学校から十分ほどのこの貸し間へ引っ越したのは、自立というより、世界への無言の降伏宣言に近かった。六畳の和室、西向きの窓。隅に積まれたダンボールは未開封の墓標のようで、空気には新しい畳の微かな匂いと古い木材のため息、そして──拭いきれない「無」という名の埃が漂っていた。


日常は色あせた無声映画だった。教室の窓際の席で、視線は決して境界を越えず。コンビニの蛍光灯の下で、空腹を満たす最低限のものだけを選び。部屋では薄いカーテンを引き、夕日を遮断する。


瞑想は、意識の荒野への追放。深夜の散歩は儀式で、足音だけが静寂に虚ろに響く。まるで底知れぬ淵へ沈む小石のように、さざ波さえも吝嗇だった。


四月、雨脚が次第に強まった。ある肌寒い雨上がりの夕暮れ、水滴が窓面を這い、光を流れる色の断片へと揉み砕いていた。


私は座卓に向かい、開かれたノートと対峙していた。そこは私の胸中と同じく、真っ白だった。


その時だった。


夜の闇よりも濃い影が、濡れた塀の跡を音もなく滑るように過ぎた。


黒猫。


歩みは悠然と、神々しいほどの距離感を纏っている。尾を挑発するように微かに立て、何気なく窓の内を一瞥した。


その眼差し──好奇心も温もりもない。ただ、純粋な「存在」が「存在」を確認するように、まるで静物を掠めるかのように。


心臓がぴくりと震えた。微かな電流が走る。息が止まり、指先が無意識に冷たい硝子へと押し当てられた。


猫は立ち止まった。窓の外、雨に浸された狭い空き地で。覗き見る者など意に介さず、ただ静かに蹲り、首を少し傾け、世界の余韻を捉えていた。軒先から落ちる水滴、遠くの車の流れの低音、そして──私の胸の中で騒ぎすぎる鼓動を。


時が凝縮した。窓の内側は透明な檻に囚われた私。窓の外はルールの外を漂う謎。濡れた静寂が漂い、心の荒原を一時的に覆い尽くした。


私は真似をしてみた。ごく微かに身体を伸ばすと、関節が無音で軋んだ。黒猫の耳先がかすかに動いた。すると、立ち上がり、信じられないほどに伸びやかで、力に満ちた背伸びをした。一挙手一投足が野生の優雅さで彩られていた。その儀式を終えると、金色の瞳孔に私の青ざめた顔が映った。拙い影絵のように。


別れはなかった。軽やかに身を翻し、後ろ足に力を込めると、一滴の墨がより深い夜へと溶け込むように。塀の上へ飛び乗り、黒い影は濃くなる暮色の中へ一瞬で消え去った。まるで最初から存在しなかったかのように。


残されたのは、硝子の上に、私の指先が力んで押し付けた滲んだ跡だけだった。


私はその姿勢を、しばらく保っていた。窓の外のネオンが灯り、濡れた地面に砕けた光の影を落とすまで。


あれは何を見たのだろう? 蒼白で、ひ弱で、窓の向こうに丸まって、存在さえ疑わしく見える影を?


真っ白なノートを閉じ、指先の冷たさがいつまでも消えなかった。


あの黒猫は、淀んだ水に投げ込まれた小さな石のようだった。波紋は広がり、やがて消え、水面は一見変わらないままに見える。


雨が、また細かく降り出した。私は窓を閉め、湿った空気とあの謎めいた訪問者を一緒に遮断した。部屋には自分の息遣いだけが残った。


あの頃の私は知らなかった。それは偶然の出会いなどではなく、暮れなずむ空に刻まれた一筋の痕跡であり、無言の予感であり、私の色褪せた世界を根底から覆す、荒唐無稽で温かな出会いが、この丹念に築かれた荒原へと、これから乱暴に押し入ってくることを告げるものだと。


そして全ての始まりは、酸っぱく腐ったような臭いが漂う、最もありえない場所──忘れ去られた片隅、錆びついた容器、その中で「存在」という名の欠片の回収を待っている場所から始まるのだと。


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