第25話
がつん、と意識を失う前に聞いた音によく似ているそれが聞こえたのと。
男が途端、床に倒れこんだのはほとんど同時だった。
全部が重なるようにして聞こえ、最後に中島に、「大丈夫か、キヨイ」と、聞き間違えようのない声が聞こえてくる。
目を瞬いた。
それから見開いて、視線を扉のほうへやる。
男が仁王立ちしていたせいで見えなかった場所には今、床で気絶している男よりも見慣れている男がひとり、立っていた。
言葉どおりの心配げな口調とは、裏腹に不恰好な角材が右手にしっかりとおさまっている。
その姿によく似たものをつい最近、別の誰かでイメージしたのを中島はぼんやりと思い出していた。角材は金属バットで、血塗れにもなっていたけれど。
設楽じゃなくてこいつが、と思う傍らで、「おい。キヨイ?」返事がないのに訝しむ声でもう一度、呼ばれる。
「なんで、お前が?」
さすがにこれは格好よすぎるだろ、と唖然と思いながら訊ねた。かろうじていえたのはそれだけだった。
「携帯電話に久谷が出て、で、お前のことを教えてもらったんだ。なんか色々いってたような気がするけど、あんまり覚えてない」
そういえば深井からの電話に出ようと思った時に、殴られたのだった。久谷に携帯電話が渡っているのはおそらく、さっきの男の言葉が意味していた通りなのだろう。
恋人同士だと男は勘違いしていたから、中島の携帯電話を久谷に渡す事で何かしらの意思表示をするつもりだったに違いない。お前の大事な奴はお前のせいで酷い目に合うんだぞ、とか、連絡が取れなくて不安だろう、とかそういう脅しの意味合いで。深井がここにいるのなら場所もしっかりと教えていたという事だから、見るも無残なボロ雑巾にした中島を見せつけて、せせら笑う腹積もりだったのかもしれない。
――どちらにしても連れ込む相手を間違えた上に、自分が殴られていては世話がないが。
ちらりと埃まみれの床に倒れている男を見遣り、深井に視線を改めて移してから顔をしかめた。
「角材で殴る事はなかったな」
「加減はした」深井はこれが精一杯の譲歩だと言いたげに言い切ってから首を傾げる。「それにこういうのって正当防衛にならないか?」
「下手したら過剰防衛。俺一人でもどうにかなったのに、大学やめることになったらどうするんだよ」
「俺は、別にかまわないけど?」と、深井が言った。それがどうして大変なの? と聞き返してきそうな言い方である。
「俺が気にするんだ」
「でも高校の時からずっと、こんな感じだっただろ?」
まあ、そうだったけど。とはさすがに頷けない。代わりに苦虫を噛み殺すような顔をしてまた、睨みつけた。どんなに詰ろうが呆れようが暖簾に腕押しみたいになってしまうだろう予感に、深井にぶつけようとしていた苛立ちを最小限にして質問の形にする。
「どうして電話かけてきた? 二年ぶりだろ、多分」
あれがなければ男に簡単に殴られる事はなかった、とは思わないが不意をつかれたのは確かである。
「なんとなく?」ちょいっと首を傾げてから深井は笑った。見慣れた笑顔で、二年前のそれと変わらない。「冗談だよ。ちゃんと話をしたいなって思っただけで。映画館の中だって外だって、お前つっけんどんで全然話できなかっただろう? 久し振りに会ったのにあんな調子だったからさ」
「それだけ?」
聞きながら、もっと他に言うべき言葉があるんじゃないか? と深井に聞き返したくなっていた。自分からは決して言おうとしない事ばかりが、期待感を伴って滑り出てきそうになっているのを自覚する。
首を横に振り、考えを振り落としてから、後ろの扉に目を向ける。
「さっさといなくなるぞ。ここに長居する理由もない」
「いいのか。この人放置で」自分で殴っておいてなんだけど、と首を傾げて深井は男を指差した。
ちらりと視線をやる。角材で殴られたといっても、男の頭から血が流れている様子はなかったし、ここを離れてから救急車を呼べば十分だろうと思う。正直に言えば、ここに連れ込まれた身としてはわざわざ救急車を呼んでやるだけの良心でも有難く思ってもらいたいものだ、とも傲慢ながらに感じていた。
「死にやしないだろ。それに、こいつよりもお前が大学を辞めるはめになるほうが嫌だ」
それともこんなに鮮やかに殴っておいて良心が痛むとでもいうのか? と深井を見ると、彼はなんでもないことのように肩を竦めてみせた。
(続)
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