届かない場所で君を見ている
トモ倉未廻
第1話
覗きこむ携帯式の双眼鏡越しに見るのは、ふたりの男である。
ふたりとも二十代、正確にいうのなら片方――華奢と表現するのが最も適切そうな黒髪の男が二十代後半、その傍らにいる黒髪の男よりも頭ひとつ以上背の高い茶髪の男が二十代前半だった。親しげに笑い合いながら石畳の並木道を歩いている。
おそらく彼らの脇を過ぎて行く通行人を呼び止めて、彼らの関係性を聞いたなら、気の知れた仲のいい親友同士だと大抵の人間が答えるのではないだろうか。実際、双眼鏡から彼らを眺めている
ガリ、と咥内で飴玉の砕ける音がした。粉々になったそれを飲み込んで、苦くもないのに顔をしかめる。
ふたりが仲のいい親友同士である、という可能性はなくもない。
彼らはここからさほど距離が離れていない築二十年のマンションの一室で一緒に暮らしている。茶髪の男、
椎名智一という人間は一体なにをしているのか、と訊ねられれば中島はまず、「母親のようなことを」と答えるしかない。
男が男を、母親のように世話をする。というのが、気色悪いというつもりは中島にはさらさらなかったけれど、深井浩二と椎名智一に関してだけ言うのなら、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
不意にジャンバーのポケットに押し込んでいた携帯電話が鳴り響く。双眼鏡から目を離さないまま手をポケットの中に突っ込んで、通話ボタンを押してから耳にあてた。
「はい?」
『あ。所長?』と向こう側から聞こえてきたのは、若い女性の声である。狭い雑居ビルの三階に構えた中島探偵事務所でお茶汲みと事務をしてくれている、
双眼鏡の向こうでは男達ふたりが笑い合いながら、冗談でもいっているのか、とても楽しげに並木道を歩いている。
そっちには主婦業に専念している椎名智一がよく出かける大型ショッピングモールがあり、併設されているシアターでは、一週間前からあるアクション映画のロードショーがはじまっていた。四年間音信不通になった監督が製作した作品で、前作が公開されたのは中島がちょうど高校三年生の春だった。五月晴れの、鬱陶しくなるぐらい綺麗な青空の日だった。
双眼鏡から目を離して、目蓋を閉じる。開けてから、「どうした、奈々さん。何かあった?」と訊ねる。
彼らはきっとその映画を見に行くのだろう。ずっと同じ姿勢だったせいで強張ってしまった首をゴキゴキと鳴らす。
『昨日急にこれなくなったお客さんが今日急にいらしたんです。昨日の報告を聞きたいからって、』と、電話口で奈々が応える。若干声が小さくか細くなったのは、仕切りで囲っているだけの応接スペースに依頼人がいるからだろう。
「えっと、
そんな一度に何十件も依頼を抱えられるような大きな事務所ではないが、念のために確認する。
『はい。……どうしましょう? 所長、帰ってきます?』
返事をする前にもう一度、双眼鏡を目の高さに持ち上げた。遠くのふたりの背中を確認する。思った通りにショッピングモールへと歩いていく様子に頷いてから、口を開いた。
「分かった。今から帰るから、そう久谷さんに言っておいて。まあ向こうもいきなり来たんだし、少しぐらい待たされても怒らないと思うけど」
今こうして双眼鏡を覗き込んでいること自体が、久谷の依頼なのだし。そのあたりの事情は汲んでもらえるはずだ。
『分かりました。じゃあ早く帰ってきてくださいね』
「了解」応えて通話を切る。
双眼鏡を折りたたんで、ジャケットのポケットに入れた。
小さく息をつくと、さっきまであまり気にならなかった周囲の喧騒がざわざわと耳に入り込んでくる。いまどき全然流行らなさそうなデパートの屋上遊園地は、今日に限ってヒーローショーが催されているせいか、親子連れで賑わっていた。そんななかでたったひとり、屋上の金網フェンスに手をひっかけながら携帯式の双眼鏡を覗き込んでいた中島が浮いていないわけもなく、露骨とまではいかないにしてもちらりちらりと視線が顔の表面をかすめていく。
中島はそっと視線を動かした。
遠慮がちな眼差しの中でひとつ、要領悪くこっちを眺めたままの目に気づいてそちらを見る。
塗装のはげた馬や馬車が楽しげなメロディとともに廻っているメリーゴーランドの脇のベンチから、視線を投げてくる若い女性と目があった。
育児に追われながらも充実した生活を送っている、といったふうな格好の彼女に上辺だけ綺麗な笑みを浮かべて会釈をすると、視線は即座にさっと離れていく。けれどさっきまで若干不審そうにしかめられていた表情が、瞬間的にゆるんで赤らんだのを、中島は見逃さなかった。
昔から、異性にはモテるほうだ。
だから人が、意外と外見で騙されるのはよく知っている。
最近では凶悪事件が起こって平凡そうな犯人の顔写真が報じられるたびに、「こんな普通そうな人がどうして」と驚く奈々を見る回数も増えたけれど、中島の容貌にしたって同じ事だった。
人の往来が激しい場所で双眼鏡をいじっていればまず、人は不信感を抱く。ストーカーや変質者といった単語を連想する。けれどそれが少し見栄えのいい人間だったりすると、少しだけ考えを改める。改めなくても、警察に通報するまでは意外といかない。
この探偵業をやっていれば一度や二度、不審者として警察にご厄介になるのはよくある話だそうで、けれど中島にはそういう事態に陥った経験が一度もなかった。大学生で通る見た目なのも理由の一つなのだろう。
故意に浮かべていた綺麗な笑みを剥がして、中島は金網のフェンスに絡めていた指をほどいた。
(続)
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