武蔵滝山藩の足軽たち:アイデンティティサイドストーリー
KANA.T
第1話 献杯
武蔵滝山藩、江戸上屋敷、足軽詰め所。気心の知れた五人が六畳ほどの板の間に、行燈一つを囲んでいた。
参勤交代で、昨晩江戸入りしたが、過酷な移動から来る疲れは、そう簡単に取れそうにない。
「いやー、えれぇ目にあった。」
「まさか、小走りで江戸入りするなんてな……。」
移動中に藩主が体調を崩し、予定外の宿場町で一夜を明かした。
その皺寄せで定刻の到着は無理だが、予定日通りには到着したい——上の要望を満たすべく、普段の二倍以上の速さで移動した。
若い足軽二人の会話を耳に、疲れの取れぬ四十路の男が、足を揉み解しながら頷く。
「与一と五兵衛は若いからその程度で済むが……俺は、老体に鞭打つって意味をしみじみ感じたね……。」
すると、彼よりも歳が上の男が首を振る。
「情けねぇな、貫太。俺なんかもうすぐ五十だけど、まだいけるぞ。」
「信長は人生五十年って言ってたらしいけど……五十んなったら源さんがどうなんのか楽しみだな。」
別の男が口を挟むと、源治は即座に遮った。
「喜作、ありゃあ、五十年で終わるって話だ。俺を死なす気か!」
「え?そうなの?」
「あ、終わるっていえばよぉ。」
貫太が別の話を振ろうとすると、若い二人の口が揃った。
「キョウスケのこと?」
「ああ……処刑されちまうとはな。」
室内は一瞬で静まり返る。皆の脳裏にキョウスケの笑顔や軽口が浮かんでは消えた。
「本当かな……」
「さぁ……」
「キョウスケが死ぬかな?」
「ううーん……」
一同が考え込む——。すると突然、上官の北山が詰所に姿を現した。
「皆、生きてるか?」
不意を突かれ、一瞬皆息を飲んだが、すぐに朗らかな笑い声で室内が満たされた。北山は一堂を見渡す。
「皆、本当にご苦労!ほい、約束の酒、上様から。これはここの五人分。」
北山が手に持った大きめの徳利を掲げると、五人から感嘆の声が上がる。
「ほんとだったのか!?」
「スゲェ、こんなの初めてじゃねぇか?」
移動三日目の朝、側用人の二人が皆を集め、その日のうちに江戸城下に入る目標が掲げられた。そして、彼らは言った——。
「到着の暁には労いの酒を振る舞いまする!」
やる気にさせる方便と皆が思った。とはいえ、足軽が上官の要望に応えるのは絶対。誰一人期待することなく先を急ぎ、予定日に到着を果たした。
「じゃ、後は皆で楽しんで。」
邪魔をしないように気を遣い、北山は去っていった。上官の背を見送ると、若いうちの一人が詰め所に設置された棚から盃を持ってきた。
「六枚?」
「おう、一つはキョウスケの。」
皆が下男の馬係に思いを馳せ、悲劇の末路を思い表情が曇る。その瞳には行燈の光がしばし揺らめいた。
源治は気を取り直し、徳利を手に取ると「今日は……献杯だな……」と言いながら、そっと皆の盃に酒を注いだ。他の四人が静かに頷く。源治が両手で盃を掲げる。
「献杯!」
皆もそれに倣った。その夜——キョウスケの思い出話が絶えることはなかった。
※このサイドストーリーは、「アイデンティティ」本編の第8話「到着報告」の裏の物語です。
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