第4話


 まず思い出すのは、真っ黒い雲と、止むことを知らないように思われる雨粒。



 外出さえ危ういその中を、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていた。全身ずぶ濡れ、額から流れる水のせいで滲む視界。どこに向かっているのかも分からなかった。



 ただ、悲しくて、辛くて、苦しくて。



 頭は真っ白で冷たくて、それなのに目頭と胸は焼けるように熱くて、もうぐちゃぐちゃだった。



 どうしようもない。

 そんな想いばかりが膨らんだ。



 お母さんが死んだ。長い病棟生活の末で。目の前で息を引き取った。心電図の音がそれを示していた。思い出しただけで呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。



 いつかこの日が来るのは分かっていたはずなのに、いざ死を目の当たりにしたら、言葉も感情も、何一つ出てこなかった。まるで、人間性その全てが、お母さんの魂と共に何処かへ行ってしまったようだった。



 私の生きる意味は、もう、何処にもない。

 

 

 土砂降りで視界の悪い交差点が見える。丁度上には歩道橋があった。



 あそこから落ちたら、すぐに母に会えるだろうか。



 そんな想いがふと募る。現実と理想の区別さえおぼつかなかった。ふらふらと階段を登る。水が跳ねる音、クラクションの音、信号機の音、気が軋む音、風が強まる音。それらが大きくなって、私を飲み込もうとする。



 最後の一段を登った時、は静かに居た。



 どっぷりとした闇の中に、紛れることのできなかった白が、ぼうっと亡霊のように浮かんでいた。



 幻覚だと疑った。だが、何度視界を擦っても白は消えず、むしろ、近づくたびに姿が露わになっていく。



「こんばんわ、お嬢さん」



 そいつは恭しくお辞儀をした。真っ黒いローブを纏った、白い仮面をつけた奴だった。



「突然ですが、仮面はいかがですか?」


「仮面……?なにそれ。そもそも、あんた誰……」


「おや、失礼いたしました」



 仮面の表情がニヤリと笑う。そんな気がした。



「私のことはピエロとでもお呼びください」


「ピエロ……。サーカスっぽくない」


「ええ。なにせ、私が売っているのはエンターテイメントではなく、先ほど申し上げた仮面なのですから」



 ローブの真ん中、腹に当たるだろう部分から、すっと手袋に乗った仮面が現れる。何の変哲もない、白の面に細い目と口が描かれたものだった。



「これは『笑顔の面』です。付ければ四六時中、笑みの絶やさない人間になれます」


「なんでそんなもの、私に……」


「お母様との約束を果たせるのでは?」



 仮面の口元が歪んだ。それを見ていないわけではなかった。けれど、ピエロ言葉の方が何倍も私の意識を持っていった。



「なんでそれを……」


「私には何となく分かるのですよ。亡きお母様との約束、この仮面をつければ、難なく果たすことができますよ。お母様もお喜びになられるのでは?」


「……」



 白い手の中にある仮面をじっと見つめる。



『どんな時でも笑顔で、良い子で。いつも笑って生きてね。大好きな笑瑠』



 お母さんの声が耳元で蘇る。まだまともに会話できていた頃、そんなことを言われた。言葉の意図は聞かなかったけれど、何となく、2人の最後の約束のような、そんな気がした。



 その時は勢いで頷いてしまったけど。他人と関わることが苦手な私にとって、笑顔でい続けるのは不可能に等しい訳だった。



 甘い誘惑に、気づけば仮面に手を伸ばしていた。艶のあるそれを、顔にゆっくりと貼り付ける。



 ピタリと仮面と顔が一体化した時、目の前のピエロは消えていた。



 きょろきょろと辺りを見渡していた時、カーブミラーがなんとなく視界に入った。気になって覗いた。



 目の前の私には、笑顔が張り付いていた。



 



 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る