第三十話 暫定合意案

匠との初回交渉が物別れに終わった、その夜。


防衛省の地下深くにある、窓のない特別会議室は、怒号が飛び交う寸前の、氷のような緊張感に支配されていた。

円卓を囲むのは、装備庁長官、統合幕僚長、そして財務省の主計局長。

彼らの前に、交渉決裂を告げる無慈悲な議事録だけが、冷たく横たわっている。


「だから言わんことではない!」


沈黙を破ったのは、統合幕僚長だった。

その岩のような体躯から、抑えきれない怒気が立ち上っている。


「あんたの甘い『お願い』とやらが、どういう結果を招いたか、よく分かっただろう。国家の要請を、一民間人の小僧が、感情論で撥ねつけたのだぞ。前代未聞の恥だ!」


財務省の主計局長が、銀縁の眼鏡の奥から、冷たい視線を長官に向けた。


「我々は、貴重な時間を無駄にしましたな。もはや、対話の段階は終わった。特別措置法を発動し、あの鎧と、藤林匠本人を、国家安全保障の名の下に、可及的速やかに確保すべきです。これ以上の遅延がもたらす経済的損失は、計り知れない」


彼らにとって、匠は駒であり、《霞》は道具だった。

そして、その駒が、盤上のルールを無視した今、力ずくで、その駒を、あるべき場所に戻す。

それが、彼らの、国家の論理だった。

その冷徹な空気に、長官は、静かに、しかし、凛とした声で割って入った。


「――そして、その先に何があると?」


彼は、一同を見渡した。


「力で彼を屈服させ、魂の抜け殻となった鎧を手に入れて、何になる? 藤林君は言った。『自分の手でスクラップにする』と。彼のあの目を見て、それがただの脅しだと、本気でそうお思いか?」


「ならば、どうしろと!」


統合幕僚長が吐き捨てた。


「このまま、指をくわえて見ていろとでも言うのか!」


「いや」


長官は静かに首を振った。


「戦術を変えるのだ。正面からの『お願い』が通じぬのなら、今度は、戦略を用いる」


「戦略、ですか」


その言葉を、主計局長が、まるで子供の戯言を聞くかのように、冷ややかな笑みで繰り返した。


「結構ですな。ですが長官、あなたの仰る『戦略』とやらは、どうせまたあの青年の理想に寄り添う、甘いものでしょう。……我々には、もっと現実的な『戦略』が必要なのですよ」


彼がそう言うと、ホログラムの合意書に、一本の条文を、静かに追加した。


『――追記:本暫定合意の有効期間は締結日より一年間とする。期間満了後、両者は誠意をもって再交渉に臨むものとする』

「……一年」


長官が、険しい表情で呟く。


「……一年という時間を稼ぎ、その間に、あの青年を懐柔し、骨抜きにするつもりか」

「人聞きの悪いことを」


主計局長は、表情を変えずに言った。


「一年間、彼の理想に付き合って差し上げましょう、と言っているのです。その間に、彼自身が、現実というものを学ぶでしょう。……それとも長官、この妥協案すらも、お呑みになれないと?」


それは、最後通牒だった。

長官は、唇を噛みしめた。

ここで全てを拒絶すれば、プロジェクトは凍結され、《霞》は闇に葬られるだろう。だが、この毒杯を飲めば、一年後、匠の魂は、国家の論理に飲み込まれるやもしれない。


彼は、脳裏に、あの実証試験での《霞》の神々しい姿を思い浮かべた。


『……あれは、未来だ』


そうだ。

あの未来の光を、ここで消すわけにはいかない。

一年。

一年あればいい。

この一年で、彼と、あの鎧が、本物であることを、この国に、いや、世界に証明してみせる。


「……分かった」


長官は、絞り出すような声で言った。


「……その条件で、いこう」


こうして、匠に提示される「優しい罠」は、完成した。

そして、その裏側で繰り広げられた魂のせめぎ合いを知らないまま、匠は、運命の部屋へと、足を踏み入れることになる。



――翌日。


匠は再びあの特別応接室に通された。

昨日とは様子が違っていた。

部屋にいたのは装備庁長官ただ一人。

幕僚長たちの威圧的な姿はどこにもない。


テーブルの上には昨日までの重々しい資料の山ではなく、ただ一枚の薄い電子ペーパーだけが置かれていた。


「……よく考えてくれたようだね」


長官は穏やかな表情で匠にソファを勧めた。

その物腰の柔らかさに匠は少しだけ戸惑った。昨日のあの厳しい態度はまるで嘘のようだ。


(……静流さんが何か言ってくれたのか……?)


彼の脳裏に昨夜の彼女の真摯な瞳が浮かんだ。


「……君の言いたいことはよく分かった」


長官はゆっくりと切り出した。


「君が何を守ろうとしているのか。そして我々が何を見誤っていたのかも。……我々は君の鎧のその圧倒的な性能ばかりに目を奪われて、その最も大切な『心』の部分を軽んじていたようだ。……すまなかった」


その意外な謝罪の言葉に、匠は思わず顔を上げた。

国家の最高幹部が自分のようなただの町工場の職人に頭を下げている。

その信じられない光景に、彼はただ言葉を失っていた。


「……そこでだ」


長官はテーブルの上の電子ペーパーを匠の方へと滑らせた。


「……新しい提案を持って来た。君の想いを最大限に尊重した、暫定的な合意案だ。……読んでもらえないだろうか」


匠はおそるおそるその電子ペーパーを手に取った。

そこには


『PA-01 YATA《霞》に関する共同開発及び限定的運用に関する暫定合意書』


と記されていた。

彼は息を詰めてその条文を読み進めていく。


第一条。《霞》の所有権は藤林匠個人に帰属する。

第二条。国は藤林匠に対し、共同開発者として最大限の協力と支援を約束する。

第三条。《霞》の運用は当面の間、「人命救助」及び「災害対策」に限定する。

第四条。戦闘行為への投入は国民の生命が直接的な危機に晒された国家非常事態に限定し、その出動の最終判断には必ず藤林匠本人の同意を必要とする。

第五条。MIYABI及び礼式ロックに関する全ての制御権は藤林匠が保持する。国はその根幹技術に一切干渉しない。


「……!」


匠は目を見開いた。

そこに書かれていたのは、彼にとって信じられないほど好意的な内容だった。

彼の懸念はそのほぼ全てが払拭されている。

これならば受け入れてもいいかもしれない。

彼の表情の変化を見て取った長官が静かに言った。


「……どうだろうか藤林君。これならば君の魂を売り渡すことにはなるまい?」


匠は何度も何度もその条文を読み返した。

完璧だ。

完璧すぎる提案だ。


静流さんのおげだろうか。

彼女が俺の想いを必死に伝えてくれた結果なのだろうか。

彼の心は大きく揺れていた。


ペンを取れば全てが丸く収まる。

国を守るための大きな一歩を踏み出すことができる。


彼は顔を上げた。

長官が安堵したような表情でこちらを見ている。

彼の後ろに控えていた秘書官がそっと電子サイン用のペンを差し出した。


匠はそのペンを受け取った。

そしてサインをする欄へと、そのペン先を近づけていく。

あと数ミリ。

そうすれば全てが決まる。


その瞬間だった。

彼の脳裏に祖父の声が響いた。


『いいかい匠。物事の一番大事なところは、一番見えにくいところに書いてあるものだよ』


「……!」


匠の手がぴたりと止まった。

彼はもう一度合意書の一番下、隅の方に小さな小さな文字で書かれている付属条項へと目を凝らした。


『――追記:本暫定合意の有効期間は締結日より一年間とする。期間満了後、両者は誠意をもって再交渉に臨むものとする』


……再交渉。

そのたった一言が、匠の心に冷水を浴びせかけた。


そうだ。

これはあくまで「暫定」なのだ。

一年後この約束が守られる保証はどこにもない。


その時国際情勢がさらに悪化していたら?

国民の世論がより強硬な防衛力を求めていたら?

その時俺は一人で国家という巨大な圧力に抗うことができるのか?


これは罠だ。

優しい甘い罠だ。


一度この甘言に乗ってしまえばもう後戻りはできない。

一年という時間をかけてゆっくりと外堀を埋められ、気づいた時には全てを奪われている。


匠はゆっくりとペンを置いた。

その静かな、しかし明確な拒絶の仕草に、長官の穏やかだった表情がすっと消えた。


「……どういうことかな、藤林君」


その声は先ほどまでの温かみが嘘のように冷え切っていた。


匠は顔を上げた。

その瞳にはもはや迷いはなかった。

あるのはただ一つの揺りぎない覚悟だけだった。


「……申し訳ありません」


彼は静かに、しかしはっきりと言った。


「……この条件ではまだ、俺の魂は預けられません」


部屋の空気が再び凍りつく。

長官の瞳の奥で危険な光が揺れていた。


一体何が不満なのか。

これ以上の譲歩を求めるというのか。

この国の危機を理解していないのか。


その無言の圧力が匠の全身にのしかかる。


だが彼はもう揺らがなかった。


彼はこの交渉の本当の本質に気づいてしまったのだ。


そして彼が本当に守らなければならないものが何なのかを、はっきりと自覚したのだ。

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