第43話 百万字

【花天月地】が目標にしていた100万字を無事に越えましたので、


一度ここで総括を。



今回の新エピソード【歪む天と地の轍、尾びる星】ですが、

これは偶然ではありますが、これを書くために陸遜小説100万字書いて来たんじゃねえかなっていうくらいのエピソードになります。


実のところ【花天月地】は赤壁の戦いを経て、益々混沌とした戦乱情勢になっていく赤壁後の世界から描いています。


実は第二部であり、第一部は陸遜自身のパーソナルな部分、この話でも書いた、陸家の若き当主として、苦しんで来た部分、それがもとであまり他人に心を開けず、何もかも背負い込んで軍師なのに武将達を信じれず、何かあると自分で何でもなんとかしようとして、かえって混乱を招いたりしてしまったりと、未熟な軍師としての失敗などをしているうちに、戦歴では百戦錬磨の甘寧に人間のこと、戦場のこと、軍師が策を授けて戦場に軍を派遣することは「人任せにすることと同じではない」ということなど、それまで陸遜に誰も教えなかったことを、甘寧が教えてくれて、初めて陸遜個人としても、軍師としても心を開いてはなせるようになったのがうちの陸遜にとって【甘寧】という存在であり、


彼が特別な存在になって行き、赤壁に挑むまでが第一部になります。


(※赤壁は短編集【赤壁の戦い】から読むことが出来ます。ひとまとめにしてる方にも上げているのですが、赤壁だけで十万字を越えていますので、第一話においておくと自主企画とかでも最初が長すぎてとっつきにくくなったり、

1000000字を目指すにあたって最初に十万字を置いておくと、文字数カウントが分かりにくくなるのでいれてないのですが、非公開の部分で赤壁の戦いが「エピソード0」としてひとまとめの方は入っている)


とにかくそういう、第一部、赤壁、第二部、龐統編をずーーーーっと書いて来たのは恐らくこのエピソードを書きたかったからなのだという、

そういう特別なエピソードの一つになります





歴史小説について。


前にも一度、【花天月地】を連載し始めた時、私は【花天月地】を書く時は、何もかも自分の書きたいように書くため史実は重視しない。

重視しないと決めて書いているだけで、敢えてそういう書き方をこれでは選びたくてこういう話を書いているから、


「こんな風には史実はなっていない」という話は絶対に受け付けない


ということを一番最初に書きました。


今の所そういう人はいませんが、これから先もこれは絶対条件として書いていますので、こういうことを言ってくる人間がいたら話し合う時間も惜しいので即ブロックをするつもりです。



歴史小説というものは、認識が、人によって違うものです。


史実をどの程度参考にして、事実を範囲として、描くかと思う人が普通かもしれませんが、私は実はそれも少し異なるんじゃないかと思っています。


つまり前も言いましたが「歴史」というものは、記録です。

記録は、改竄も欠落もするものです。

「残されていないもの」も歴史には存在し、完全に失われている場合もあるし、まだ見つかっていないものもあります。


歴史はつまり、常に発掘されて、遠い古代の人々の暮らしや文化、正確に捉えることは、それほど困難で不確かなことなのです。


私にはまずこの前提があるので、


他人がどんな歴史小説を書こうと、尊重します。


歴史小説を書くと「史実はこうじゃない」「こんな記録はない」という人が一定数います。

それは事実ですが、ですが、それは記録が残っていないだけかもしれないし、見つかってないだけかもしれないので、根拠が不確かな理由なのです。


言って来た奴が「曹操」ならば、「曹操はこんな人間じゃない」って言ってもいいですが、そいつは曹操じゃない、曹操にまつわる記録を拾い集めて曹操のしたことをしり、「曹操さん知ってるよ」というだけで、その記録すら、正しいかも定かではないし、意図して残されたり残されたなかったりするものもある。


じゃあそんなこと言ったら歴史を定められないじゃないかと思うかもしれないですが、そうなのです。

歴史とは、現代人において不確かな記録であるということは、常に念頭に置いていなければならないものなのです。


「記録が残っている」


それが、事実かどうかは、本当の所分からないのですよ。DNA一致と一緒で可能性は極めて高いが、100%正しいというのは避けるのが基本です。


「記録が残っている」とそれを振りかざして、だからお前の書いてるものは事実から外れている、と他人の話を否定するくらいなら、「そういう記録はまだ見たことないなあ。あったら面白いね」ともっとポジティブに肯定する方が、歴史という不確かで未知なものに相対するアプローチとしては正しいのですよ。


だから私も歴史小説を読んでて史実とどんなに逸れていようと「こんなのは違う」などとは一度も誰に対しても言ったことがありません。



もう一つ歴史小説には難しい部分があって、


上記に関わりますが「事実はこうだ」と高確率で認定された史実があったとします。


例えば「○○年に、○○が○○を陥落させた」そんなことがあるとします。


歴史に重きを置く人は、この文章額面通りにしか読み取らないのです。


でも歴史は要するに、人間たちの記録の積み重ねですよね?

創作は、作者が考えたものが全てです。他に答えとかはありません。

でも歴史はそうではなく、

現代の私たちも、日々何かを迷ったり議論しながら毎日を生きていますよね?

三国時代の人達も当然、そこは人間として何も違っていなかったと思うのです。



○○が○○をした。



歴史にはそれだけ刻まれますが、


もしかしたらその人はそれを

①したくなかったかもしれないし、

②思いがけずすることになったのかもしれない

③直前まで悩んでいたけど誰かと話してやろうと決意したのかもしれないし、

④やりたくなかったけど、やらざるを得ない状況に追い込まれたのかもしれない。


つまり、


○○が○○をした


その事実だけ見ても、行った人の心境などは読み取れません。


私は、


これを後世の人間が想いを馳せたり、どうだったのかな、と考えてみるのが歴史小説の根幹にあるべきだと思っています。


曹操と荀彧の最後にしても、「諸説ある」と言われますが、

実際には「諸説ある」どころではないのです。

多くの人間がそこに至る前に、悩んだり、会話を交わしたり、現代の人達がするように、三国時代の人達も迷ったり悩みながら、結果として選んだ道が、歴史の一つの事実として記録されているだけであり、


歴史小説ではそこに至る為にその人が「どう考えてそうしたか」の部分は、みんな自由に考えていいのですよ。


現代の人間でさえ、進んでやったことと、嫌々やったことでは解釈が全然違ってきます。


それに、仕事をしていれば分かると思いますが、誰かの代わりにやる人もいれば、心境としては嫌だったが、苦しみながらもそれをした、そういうこともよくあります。


後世の人間が、古代の人達の迷いや苦しみを一切鑑みず「○○年○○が起こった」と単に表記することは、ある意味でとても傲慢で端的な見方でしかない。




だから「歴史ではこんな展開ではない」と言う人間が私は好きではないのです。


①歴史はこれからの未来に掘り起こされるもの次第では大きく常識が覆ることも十分にあり、現時点で明らかになってる知識で他人の「こういうこともあったのではないか」「あってほしい」という願いを頭ごなしに押し潰すのは、他人の武器で勝負しているような傲慢な対応で、やりすぎである

そこまで歴史は確かじゃない。


②高確率で事実であろうことでも、その事実は、実際には生身の人間たちが、悩みながら下した決断である可能性もあり、「何か一歩違っていたら、寸前まで別のことになった可能性すらある。だったら、そうなったことは確かとはいえ、【全く可能性が無かったことだ】などとは言えない。

別の事実になっていた可能性は、そんな馬鹿にされるほど低くはない。


この①②を非常に思うからなのです。


孫権が赤壁で徹底抗戦を決め、赤壁で、勝ちました。


例えば「赤壁で勝てない呉軍」を書いたら、

「事実は勝ってるだろ」と言って来る人もいるでしょう。

その人の言ってることは事実ですが、実際には呉が徹底抗戦を決めるにはものすごい苦悩があり、誰かが何かを言わなかったら、ここは降伏して協調路線を取ってみよう、という方針も、その時代の人からすれば「うん。そういう可能性も十分あったよ」というレベルだと思うのです。


なのに結果を知っているからといって現代人が「呉は赤壁で勝っただろ。降伏なんかしてない」と、それを事実として自分の中で認識するのは歴史を正しく学ぶこととして間違ってないのですが、


「降伏なんかしてないんだからそんな事実はなかっただろ」と他人、特に歴史小説などの創作に関してきつく言ったりするのは、私はやりすぎだと思うのです。


歴史小説は好みで好き嫌いを言ってればいい。


「そんな事実無根を書くな」は言い過ぎなのです。


現代から過去はそんなに他人を糾弾できるほど正確に見ることは出来ません。

ならば全てにおいて「そういう可能性もあったかもしれない」と捉えることは、視野の広さなのです。

馬鹿とかとは、次元が違います。



特に昔の人の性格や言動は、伝わって来る部分はあるにせよ、他人から見た印象なども入っていますし、本人の残した記述であっても、公的な文章なら虚勢や誇張は入ってることがあり、その人の本当の心境は分かりません。


現代においても、その人の仕事書類だけみても、どんな気持ちでそれを作ったかなどは全部分かりませんよね?


「捉えられていない部分はある」


そう捉えていた方がずっと正しいし、他人との摩擦が減ります。


歴史分析に大切なのはそういう「寛容さ」なのです。



私は人間を見る時、その人がやったことだけを見るのではなく、その人がやりたくなくてもやったことや、やりたくてもやれなかったこと、そういう思い通りにならなかった時にも人間の真価が現われると思っています。


だから歴史の定まっていない部分にも、たくさんの人間の真価が埋もれているはずに違いと思い、そういう所に目を向け、価値を見い出しています。




「史実に忠実な歴史小説」

「自分勝手に書いてる歴史小説」



そんな風に分類されることはありますが、

歴史小説の分類は本来そんな単純に二極化出来ないと思います。


歴史そのものが、本当はそうしたくなかった人間たちの選択でも出来ている部分があるかもしれないと思うからです。


結果が記録され、歴史になりますが、

結果にまで認定されるほどに至らなかった領域にも、様々な人間たちの知恵や、果断さや、大きな流れにはならなかったけど行った、そういう善行や、願ってやった行いはあります。



人間であるという観点において、


現代人と、昔の人は同じです。


人間同士が友情や愛情や憎しみや劣等感、尊敬の念、様々なもので繋がっていて、きっと多くの失われた会話をしていて、記録されていない繋がりがあったでしょう。


「歴史ではこいつとこいつは関わった記述なんかない」なんて、


非常に傲慢な考え方だと思いませんか?


私は現代の人間にそこまで過去を正確に見通す力など無いと思っています。

だから歴史を知っている人間が、誰かに対して歴史を武器のように振り回して危害を加えているのを見ると、非常に腹が立つのです。


人間の真価は人間の一挙一動に宿っています。


それを現代の監視カメラのように見ることが出来ない限りは、

歴史において他の考えを押し潰すような行動は避けるべきであって、いつでも自分の知っている知識は覆る可能性がある、だからこそ可能性や現在現われていないことやたらに否定はしない方がいい、というのが私の歴史小説を読む、そして書くスタンスになっています。





額面通りの歴史小説の話はこのくらいですが、



今回の【歪む天と地の轍、尾びる星】について。



私はこの話こそ、自分しか書けない話の代表作と言えるのではないかと思います。

というのも、いわゆる歴史を忠実にそれだけを目指して書こうとしている人たちには、書けない類の話であるからです。

理由は、歴史好きの人は、歴史に凝り固まった考え方をする人も多いから。

ですがこれは別に悪いことではなく、歴史を歴史として見る、情を介入させずに冷静に事実を見る見方も、あるので、間違っているとか、劣っているとか、そういう話ではありません。


しかしながら、私は非常にこういう文章が歴史小説に出て来るのが「好み」であり、

好みであるからこそ自分で書いたりしています。


要するに、歴史に情を入れて読み解く、

或いは、歴史の中に、理論で説明出来ないものも埋め込む。


いわゆるファンタジーの要素なんですね。


ただし、これも嘘八百を別に書いているわけではなく、現代においても説明出来ないような直感や驚きの偶然などはある以上、絶対に古代の人達にもそういう「不思議な予感」のようなことはあったと思うのです。


私はそれを否定しないだけで、当時の人を、より現代人の感覚に近い、ファンタジーに慣れ親しんでいる、創作に親しんでいる現代人に通じる表現方法としてこういうのを用いています。



これは私が歴史だけを考えて生きてきてないからこそ書ける文章で、ある意味、【花天月地】を書く前に異世界ファンタジーだの、魔術だの精霊だのを死ぬほど書いている人間だったからこそ、その感覚で歴史を捉えて書いている、いわゆるハイブリッドな感性なのです。


しかしながら、私自身はこういう文章がすごく好きなので自分で書いて楽しんで読んで楽しんでいますが、


実は私は歴史の教科書のように、淡々と事実だけを書かれて情が一切入ってない歴史書などを読むのもとても好きなのです。


集中出来るんですよね。


理路整然と歴史の事実だけを述べられるのもとても好きなので、


実は歴史好きの人が、いきなり小説内でファンタジー的な要素を入れられた時に感じる違和感やイラッとする感じ、こんなの歴史小説じゃない!!みたいに思う気持ちも、結構理解出来るのですよ。


私もそうやって読みたいものを読んでいる時に、関係ない創作の事実とか入れられると、んーなんか読みにくいなーと思って好みから外れたりすることは多々あります。



なので、実の所どっちの気持ちも分かるのですよね。



ただ結論は、上記で書いた通り、「歴史小説こそ好みで読め」です。


史実通りか史実通りじゃないかは歴史の観点において、実の所そんな重要ではないのは上記に書きました。


歴史小説を一番楽しく読める要素は「好みか好みじゃないか」それだけです。


私の文章が好みじゃない人は、いくら読もうが、私が史実通りに書こうが、史実通りに書かなかろうが、結局のところ好みではなく、気に食わないでしょう。


そういうのは否定してはいけないその人のとても大切な感性であり、


どうぞ大切にしてくださいと思っています。


好みの文章にあった時こそ、それを大切にすればいいのです。

好みじゃない文章には長く付き合う必要はない。



私は自分自身もそれを実践していますので、他人にも「自分の話だけは読んで欲しい」とかは絶対に要求しません。


私はこの人の文章好みだが、相手は私の文章好みじゃないとかも、有り得ることです。それは承知の上で絶対に交流しようと思っています。



100万字を【花天月地】が越えました。

丁度超えたのはこの一つ前のエピソードなんですが、【花天月地】で今の所最も流血度が高いエピソードになってしまいました😇 


この【歪む天と地の轍、尾びる星】が100万字越えのエピソードならばなんとも幻想的で美しい感じしましたが、


人生は上手く行かない🤗✨


ま、いいでしょう!


目標の一つとは言いましたが、究極には自分が読みたい話を楽しいから書き続けた結果に過ぎません。


ここから先はマイペース更新ではありますが、さすがにここまで書けば私がどういう文章を、どういう内容のことを、どういう美学で書いているくらいは伝わると思います。


好みだなあと思って下さる方が暇な時に、愛読していただけるようなことになったら私も一番嬉しいです。


今までありがとうございました。

そして、これからもどうぞ【花天月地】をよろしくお願いいたします。








【歪む天と地の轍、尾びる星】は


「地上から見上げる星の光は輝いていても、地上でその光を捉えられた時には、すでに光を放ったもとの星は消滅している可能性もある」


という話を聞いた時にその星の一人時間差がとても素敵だなーと思って、


ずっとそういう「その人は亡くなっても、死後に届く光のようなものがある」みたいな話を書きたく思っていたので、うちの龐統さんがよく星の話をしたことから、いつかこういう国を隔てて最後には上手く合えなくなり言葉も届かなくなった二人でも、死後に届いたり通じたりするものがあってほしいと思ったことから


死に行く星の光というのをモチーフに書いた話です。


ずっと書きたいと思っていたモチーフだったので、書けて大満足です🌠



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