第33話 手放すという選択肢はない(ユリ視点)

胸の奥が冷たく凍りついた。


「今日は一人で帰るよ」――先輩のその言葉が、何度も頭の中で反響している。

 昇降口に差し込む西日が、まるで私を照らす監獄の光のようだった。


 私は頷いた。表情を取り繕って。

 だけど心臓は乱暴に脈打ち、足が震えていた。


 ――一人で歩く?

 ――どうして?


 私が傍にいるのに。

 私だけが守っているのに。

 どうして「一人」を選ぶの?


 理解できなかった。

 理解したくなかった。


 ◇


 遠回りの帰り道、私は思い出す。


 ――数週間前。

 私はノゾムさんにお願いした。

 「カイ先輩を守ってください」と。


 自分ひとりの力では、彼を支えきれないかもしれないと恐れていたから。

 だから彼にとって一番の友人にすがった。

 そのときの私は、本当に必死だった。


 けれど今――。


 ノゾムさんが彼に真剣な言葉を投げかけるたび、先輩の心が揺れるのを私は見てしまった。

 その揺らぎが、私には恐ろしかった。


 ……守ってほしいと思ったのに。

 今は逆に、彼が先輩を奪う影に見えてしまう。


 矛盾? そんなことは分かっている。

 でも私の心は止められなかった。


 ◇


「……許せない」


 呟いた声が、風に攫われて消えていく。

 誰が悪い?

 私じゃない。私は間違っていない。


 悪いのは――アヤメだ。

 彼を裏切り、彼の心を壊し、まだ彼の中に影を落とし続けている女。


 そして、その影を振り払えない先輩自身。

 さらに、そこに余計な言葉を投げ込んで先輩を揺らすノゾムさん。


 だから私は、もっと強くならなければならない。

 もっと大胆に、もっと公然と、もっと徹底的に。


 ◇


 翌朝、私は二年生の教室にいつもより早く入った。

 先輩の机の横に椅子を持ってきて腰掛ける。

 隣の席の男子が苦笑いしながら場所を譲る。そんなの、どうでもいい。


「おはようございます、先輩」


 明るく声をかけ、当然のように彼の筆箱を手に取る。

 周囲がざわめくのが心地よい。


 ――見せつければいい。

 彼がもう“私のもの”だと、誰の目にも分かるように。


 昨日、ほんの少し距離を取られた。それがなんだ。

 だからこそ私は一歩踏み込む。

 退くなんて、ありえない。


 ◇


 昼休み、ノゾムさんが彼に声をかけていた。

 窓際で、真剣な顔で。


 以前なら、安心できたはずだった。

 「友人が支えてくれる」と思えたはずだった。


 けれど今は違う。

 彼の心を揺らす存在でしかない。


 私は二人の間に割って入った。


「ノゾムさん」


 彼が驚いた顔をした。

 でも私は笑顔で告げる。


「カイ先輩をこれ以上、悩ませないでください。……守るのは、私の役目ですから」


 ノゾムさんが少しだけ目を細めた。

 その視線が、私を試すように射抜いてくる。


 ――あのとき“託した”気持ちは、もう消えた。

 今は誰であろうと、先輩に干渉させない。


 ◇


 放課後。

 彼は少し戸惑いながらも、私と一緒に校門を出た。

 昨日とは違う。今日は「一人」を選ばせない。


 沈黙のまま並んで歩く彼の手に、そっと自分の指を絡める。

 驚いたようにこちらを見た瞳に、私は微笑み返す。


「大丈夫です、先輩。私はずっと傍にいますから」


 絡めた手を、もう二度と離すつもりはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る