第9話 見えてしまったもの

夏休みが近づき、校舎の空気はどこか浮ついていた。

 文化祭の準備に忙しい生徒たちの笑い声が、夕暮れの廊下にこだまする。

 だが、俺の胸は重く沈んでいた。


 ――アヤメと上條。

 最近は、二人が並んでいるのを見るのが当たり前になりつつあった。

 「委員会だから」

 「先輩が手伝ってくれてるだけ」

 アヤメの言葉を信じようとした。

 信じて、何度も心に蓋をした。

 でも、その蓋は毎日のように叩き割られる。


 噂は広がっていた。

 昼休み、廊下で耳にする。

「春日と上條、いい感じだよな」

「マジで付き合ってんじゃね?」

「羨ましいわ、あんな先輩に狙われるとか」


 笑い混じりの声。

 俺の視線が泳ぐ。

 耳に突き刺さる刃。

 誰も俺の顔を見ていない。

 ――気づいていないのか。

 俺がそこにいることを。

 あるいは、気づいた上で、わざと聞かせているのか。


 机に突っ伏し、ノートにペンを走らせる。

 意味のない線が増える。

 それでも耳に入ってくる。

「手繋いでたって見たやついるぞ」

「やっぱ、そうなんだな」


 震える手。

 ノートがぐしゃりと音を立てる。

 もう、勉強なんて頭に入らない。


 ***


 放課後。

 委員会の手伝いを名目に、アヤメは残ることが多くなった。

 俺は待つことにした。

 教室に残り、机に突っ伏し、夕焼けが赤く差し込むのをただ数えた。


 校舎が静まり返った頃、足音が近づいた。

 教室の外。

 小さな笑い声。

 聞き慣れた声。


「春日、もう少しで終わりだな」

「はい……でも、まだ装飾のチェックが……」

「俺がやるよ。ほら、こっち」


 俺の心臓が強く打つ。

 机から顔を上げる。

 窓際に立ち、廊下を覗く。


 そこにいた。

 アヤメと上條。

 プリントを抱えたアヤメの腕に、さりげなく触れる先輩の手。

 アヤメは慌てて笑う。

 けれど、その笑みは――俺が知っている、あの柔らかな笑顔だった。

 かつて俺にだけ向けられていたはずの笑顔。


 視線がぶつかりそうになり、慌てて身を引いた。

 心臓が喉までせり上がる。

 息が荒くなる。


 ――見たくなかった。

 でも、見えてしまった。

 もう「噂」じゃない。

 もう「気のせい」じゃない。

 これは、現実だ。


 ***


 夜。

 机に向かっても、ペンが進まない。

 スマホが震えた。

 画面には、アヤメからのメッセージ。


『カイ、ごめんね。今日も委員会で遅くなっちゃった。また一緒に帰ろうね』


 指が止まる。

 ――嘘だ。

 「委員会」なんて言葉で誤魔化して。

 でも、それを追及する勇気は、俺にはなかった。


 返信はしない。

 既読もつけない。

 ただスマホを伏せ、頭を抱える。


 喉の奥が焼ける。

 涙が溢れる。

 悔しさか、悲しさか、もう区別がつかない。


「なんでだよ……」

 声が掠れる。

「なんで、俺じゃだめなんだ……」


 俺は、信じたかっただけだ。

 優しさを信じて、笑顔を信じて、未来を信じて。

 でも、その全部が裏切られた。


 世界が暗い。

 誰も信じられない。

 俺はもう、人を愛することなんてできない。

 そう呟いた瞬間、胸の奥で何かが折れた。


 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、やけに冷たく見えた。

 布団に潜り込み、涙が止まらないまま、朝を待つしかなかった。

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