第3話 強引な先輩
六月の空は重く垂れ下がり、窓ガラスを曇らせていた。
放課後のチャイムが鳴り終わっても、教室はざわざわと落ち着かない。
試験前の焦りに、文化祭準備の話題。
いくつもの声が重なっているのに、俺の耳には遠く響くばかりだった。
教壇の前に立つアヤメは、両腕で分厚いプリントの束を抱えている。
文化祭実行委員の配布資料。クラス全員分を揃えただけで、ずしりとした重さだ。
細い肩が小さく上下している。
声をかけようと腰を浮かせた、その時だった。
「春日、手伝おうか?」
低く通る声。
俺のクラスの扉に立っていたのは、サッカー部のジャージ姿、長身の男子。
上條蓮司(かみじょう・れんじ)。三年生。文化祭実行委員長。
彼は当たり前のように教室へ踏み込み、アヤメの腕からプリントを半分奪い取った。
「い、いえ……大丈夫です」
「何が大丈夫だよ。委員会の資料、重いんだから。女の子一人でやらせられるかって」
軽口。
それを聞いて、周りの数人が笑った。
アヤメも、つられるように「すみません」と小さく笑う。
俺は席に座ったまま、拳を握りしめていた。
助けるつもりだった。
けれど、行動するより先に“先輩”に出し抜かれ、結果だけ見れば上條がアヤメを助け、俺は何もしなかった。
「ほら、資料室に行くんだろ。行こうぜ」
上條は自然な仕草で、アヤメの肘を軽く押した。
アヤメは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「はい」と答えて歩き出す。
その背中を見送るしかできない自分が、情けなくて仕方なかった。
***
昇降口。
プリントの仕分けを終えた頃、俺は靴箱の陰に立ち、二人の姿を目で追った。
アヤメと上條が並んで外に出ていく。
上條が何か冗談を言い、アヤメが首を振って笑う。
肩が触れそうな距離。
周りから見れば、仲の良い先輩後輩にしか映らない。
だが俺の目には、近すぎるようにしか思えなかった。
「……天城」
背後でノゾムの声。
振り返ると、心配そうに眉を寄せている。
「顔が真っ青だぞ」
「……帰ろう」
俺はそれしか言えなかった。
ノゾムは短く息を吐き、黙って頷いた。
***
夜。机の上にノートを広げる。
例の“観察メモ”。
〈今日の出来事〉
・上條(文化祭委員長)が教室に来る
・プリントを強引に奪って手伝う
・周囲笑う → アヤメも笑った
・肘に軽く触れる仕草(アヤメは拒まない)
・一緒に昇降口から退出
ペン先が震える。
こんな記録を積み重ねて何になる?
けれど、やめられなかった。
見なかったことにすれば、不安は「ただの思い込み」で済む。
けれど頭の奥は、違うと叫んでいた。
スマホを手に取る。
『今日はありがとうって言われた?』『一緒に帰った?』
打っては消す。
結局送ったのは一行だけだった。
『お疲れさま。無理しないでね』
数分後に既読がつく。
返ってきたのは『ありがとう』。
短くて軽い、空気みたいな言葉。
それでも俺は、画面を握り締めて離せなかった。
***
次の日。
昼休み、体育館の前を通りかかった時。
上條がアヤメの肩に手を置き、軽く方向を変えて案内するのを見た。
アヤメは驚いた顔をしたが、否定も拒絶もしなかった。
声をかけられなかった。
胸の奥がきしみ、氷にひびが入るような音がした気がした。
放課後の廊下では、男子たちが噂していた。
「やっぱ上條先輩すげーよな。誰とでも仲良くなる」
「春日ともよく一緒にいるし」
「付き合ってんじゃね?」
「いやいや、天城がいるだろ」
「でも、あれ見てると、なあ……」
笑い混じりの声。
冗談半分のその言葉が、俺の胸を鋭く突き刺す。
噂は、やがて事実に変わっていくのだ。
***
図書室。
静かな空気。
机に向かう俺の横で、本を開いている女子が一人いた。
前にも見かけた。
整った横顔。落ち着いた雰囲気。
その存在が、荒んだ一日の中で唯一、心を落ち着けてくれる。
けれど、まだ声をかける勇気はなかった。
***
帰宅後。
机に突っ伏して目を閉じる。
浮かぶのはアヤメの笑顔。
けれど、それは俺に向けられたものじゃない。
強引に肘を引かれ、困った顔で笑う姿。
その光景が焼き付いて離れない。
――アヤメは、ああいう“強さ”を求めているんだろうか。
俺にはできないことを、上條は平然とやってのける。
強引さ。人を巻き込む力。
それに流されてしまうのは、彼女が弱いからじゃない。
俺が弱いからだ。
そう思った瞬間、胸の奥に重い鉛が沈んだ。
震える指でメッセージを打つ。
『今度の休み、会えないかな』
数分後、既読。
返ってきたのは『ごめん、委員会の準備で……。時間できたら連絡するね』
短く『分かった』と返した瞬間、涙が滲んだ。
ノートに最後の一行を書き込む。
〈強引さに、流されている〉
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