【序章 3万年後の現実】第1考 白い…

 遡ること、20日前。



『白い…』


『白い。白い。白い』


『白い。白い。白い。白い。白い』


『白い。白い。白い。白い。白い。白い白い白い白い白い白い白い』


『白い。白い。白い。白い。白い。白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白白白白白白白白白白…』


 気づけば、頭の中でその言葉をひたすら連呼している。


 確かに、視界は白い光で満たされている。


 そして、とにかくまぶしいという感覚だけが、脳を支配する。


 いや…。

 

 これは眩しいんじゃない…。


 この眼が光に慣れていないんだ…。


 朧げな意識の中で、何故だか彼はそんな風に思った。


「…意識はあるな?」


 すぐそばで、んだ女の声が聞こえた。


 日本語のように思えるが、不自然な響きに感じる。


 声のする方を見遣みやると、何やら青と白の色彩が視界の内でぼやけた。


 そのまま目を細めてそちらをじっと見ていると、段々その輪郭がハッキリしてくる。


 それは、若い女だった。


 ただ、それだけの表現では十分ではないかもしれない。


 先ず、風変わりなことに、青みがかった髪をしている。


 加えて、服も一見するとただの白シャツのように見えるが、ボタンがなくて何だか奇妙だ。


 彼はおもむろに体を起こし、何かしら返事をしようとして声を出してみる。


 しかし、自分でも驚くほどのしわがれ声がいくつか出ただけで、喉に不快感を感じ、そのまま咳き込んでしまった。


「大丈夫か?」


 女はそう言うと、少し躊躇ためらいながらも彼の背中を優しくさすった。


「何が…。一体、なんなんだ」


 やっとのことでそう言ってはみたものの、自分の発した言葉に何処どこかおかしな感覚がある。


 彼は混乱した頭で、目と鼻の先にある彼女の相貌そうぼうを睨むようにして尋ねた。


「どうやら、正常に作動しているようだな」


 不可解なことを呟いて、彼女は少し安堵あんどの表情を見せた。


「先ずはあなたにたずねたい。名前はわかるか?」


「…名前?」


 彼ははっきりしない思考の中で、聞かれたものを答えようとする。


 しかし、途端とたんに頭の中がき乱されるような感覚を覚え、同時に吐き気に襲われた。


「ゆっくりでいい。落ち着いて」


 彼女は静かな口調でそう言うと、少し離れ、前屈まえかがみになりながら口元を抑える彼を穏やかな眼差まなざしで見つめた。


 うながされるまま、いくつか深い呼吸をする。


 頭が段々とえてくるような感じを覚えながら、彼は顔を起こし、いささか不可思議な話し方をするその女を改めて見つめた。


 歳のころは10代後半から、20代前半といったところだろうか。


 こうしてまじまじと眺めると、足先から頭のてっぺんに至るまで、造形が不自然なほど整っていることに気づく。


 ほぼ間違いなく彼が出会った中で最も美しい女性と言えるだろうし、メディアでもここまで美しい人を見たことがない。


 しかし、彼はその容貌ようぼうに感動にも近い驚きを覚える一方で、どこか名状なぶし難い違和感のようなモノを感じた。


 彼女は現実世界のトップアイドルというよりも、アニメやゲームの世界から出てきたヒロインと表現した方が正しいような何かに思えた。


「アンタは?」


 一抹の不気味さを感じながら、西洋人形のような瑠璃色るりいろの瞳でこちらを見つめる彼女に、乾いた声で彼は尋ねた。


「一先ず、名前だけ名乗っておこう。ルサールカだ。ただ、今重要なのは私のことではない。あなたのことだ」


 そもそも人種すらも判別し難いそのルサールカという少女は、そう言ってわざとらしく透き通るような白い手をこちらに差し向ける。


「私…?」


 彼は改めて自分のことを思い返そうとするが、刹那せつな、頭に焼き付くような感覚を覚えた。


 同時に、眼前にそびえる、天空に向かって白く輝く壮大な氷塊の姿が彼の脳裏に浮かんだ。


「確か、冬季のカンチェンジュンガに挑んでた筈で…」


「カンチェ…。なんだそれは?」


 聞いたこともない単語に、ルサールカが眉をひそめる。


「山の名前だ。ヒマラヤ8,000メーターほう14座の一つで、世界3位の高峰こうほう…」


 そこまで言うと、突如頭上に現れた巨大な雪の波が、自らに襲い掛かる瞬間の光景が彼の意識をよぎった。


「ちょっと待ってくれ…。私はどうなった? もしかして、助かった? いや、でもそんな訳…」


 青ざめた表情をする彼を目の前に、その話を静かに聞いていたルサールカは確信した。


 そして、同時に驚嘆に満ちた表情を見せる。


「先ほどあなたは『挑んだ』と言ったな。すると、にわかには信じ難いが、やはりアレに登っていたというのか」


 彼女の些か不自然な発言に、今度は彼の方が眉を顰める。


「ボケたこと言うなよ。ヒマラヤの高山こうざんまでわざわざ出向くのに、登らないで何するっていうんだ」


 この訳の分からない状況において、頓珍漢とんちんかんなことを言う彼女に苛立ちを覚え、彼はぶっきらぼうにそう言い放った。


 いつも通りの率直な物言いではあったが、初対面の相手では不躾な態度に流石に怒りでも覚えるかと思った彼。


 しかし、目の前の大人びた少女に、そんな様子はなかった。


 代わりに、何故だか呆気あっけに取られた顔をしている。


 それはまるで、予期せぬ答えに、頭の整理が追いついていないような表情であった。


「そうか…。あなたにとって、それは当たり前のことなのだな。あんな山と呼ぶことさえはばられるような、神威しんいの怪物に立ち向かうことが…」


 少しして、彼女は自らを納得させるように、そう呟いた。


「それで、こうしてアンタと話せてるってことは助かったに違いはないんだろうけど、ここはどこ? アンタ、病院のスタッフか何か?」


 彼女のイマドキの洒落しゃれた服装や変わった髪色から、明らかにインドやネパールの看護師には思えなかったものの、一応そう尋ねてみる。


 そして、それと同時に彼は室内に窓のたぐいは無いか辺りを見渡した。


 しかしながら、病室にしては奇妙なことに、そうしたものは見当たらない。


 また、不自然なほど整然とした部屋の造りに、彼はどちらかというと研究室か何かに近いような印象を受けた。


 彼のその質問に、我に返ったルサールカ。


 改まった仕草をすると、それまで以上に真剣な眼差しを見せた。


「落ち着いて、聞いて欲しい」


 静かにそう言って、少女が一呼吸ひとこきゅう入れる。


「先ず、あなたは助かっていない」


 今度は彼の方が、鳩が豆鉄砲を喰らった顔をする番だった。


「それに、私は病院のスタッフでもない」


「いや、それは見りゃわかる。それよりも、私が助かってないってのはどういうことだ? ここは死後の世界だとでも言うのか?」


 冗談だろと言わんばかりにそう尋ねたが、彼は引きった笑みを見せる。


 真面目そうな彼女の真っ直ぐな眼差しによる所もあったが、自分の山での経験と直感がそちらの方が筋の通ることを伝えていた。


「言わずもがな、私達がこうして話せているということは、あなたは生きているということだ。少なくとも、今は」


 冗談めいた内容ではあったが、目の前の少女は大真面目な様子である。


「…あなたは3万年間、死んでいたのだ」

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