僕とキミの千夜一夜物語

時津橋士

第一夜

 やあ。深夜にどうしたのだい? 眠れないのか。僕と同じだね。しかし、既にキミは入眠への第一歩を踏みだしている。ここがどういう所だか、知っているかい? リンボ、と、僕はそう呼んでいる。入眠と覚醒の間にある感性の場所だ。眠れない者がいだ睡眠へと船出するのを見送る場でもある。ほら、あそこに人魂が見えるだろう? あれが皆、眠りへ向かう者なのだ。

 安心したまえ。キミも直ぐに眠れるさ。そうだ、それまで僕と話でもしよう。ここで出会えたのも何かの縁だろうからね。じゃあ、身体の力を抜いて。そして思考を全て保留にするんだ。今は何も決定してはならない。全ての不安は今だけ、凍結される。何も心配しなくていいんだ。ただ、キミは浮遊しながら存在を継続させればいい。全ての現象はキミの存在に置き換わる。世界で今、唯一重要なのはキミが存在しているということだ。いいかい? さあ、深呼吸して。リラックスしようなんて思わなくていい。ただ、そこにいて。

 さあ、今夜の話を始めよう。


 しばらく前から降り始めた雨はなかなか止まなかった。薄暗い部屋の窓辺から男が通りをながめていた。部屋には小さな食器棚がひとつと、木製の机と椅子があった。その他に家具と呼べそうな物は何もなかった。男はその部屋の中で椅子に掛け、ひとり、熱い珈琲コーヒーを飲んでいた。そして何をするでもなく、ただ、窓辺から雨にかすんだ寂しい通りを眺めていた。

 犬が一匹、細い細い路地へと駆けこんでいった。静かな部屋に雨の音が響く。男はひと口珈琲を飲んだ。再び、通りに目をやると、黒い傘をさした女がこちらへやってくる。傘だけでなく、身につけている衣服もまた、黒かった。男はその女を見つめていた。寂しい通りと、そこを歩いてくる女。なんのことはない光景だが、男にとって、それは不思議と目が離せなくなるものであった。とうとう女は男がいる部屋の窓の前までやってきて立ち止まった。そして、不思議そうに部屋の中をのぞいていた。男は黙って彼女の顔を見つめていた。

 女は窓から離れた。

 もうしばらくはだれも住んでいないであろうその廃屋はいおくが彼女は何故なぜか気になった。やはり中は荒れ放題だった。部屋の奥には小さな食器棚があった。窓辺には、ぼろぼろの机と珈琲カップ、そして埃を被った椅子があった。その他には何もなかった。

 気がつくと、もう雨は上がっていた。女は傘をたたむと、少し日の差し始めた明るい通りをまた歩き始めた。


 ただ、これだけの話だ。どうだい? 気に入ってもらえたら、嬉しいな。そう。なんでもないんだ。この物語に出てきた雨が、男が、女性が何のメタファーなのかなんて、作者の私にも分からない。でも、そんなことはどうでもいい。大切なのはキミがこの話を聞いてくれて、僕とキミが世界を共有したという事実だ。

 さあ、入眠までもう少しだ。大丈夫、安心して。きっと眠れるさ。僕の話を聞いてくれた時みたいに、全てを保留にして自分以外を凍結させてしまえばいい。じゃあ、また会おうね。おやすみ。

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