僕とキミの千夜一夜物語
時津橋士
第一夜
やあ。深夜にどうしたのだい? 眠れないのか。僕と同じだね。しかし、既にキミは入眠への第一歩を踏みだしている。ここがどういう所だか、知っているかい? リンボ、と、僕はそう呼んでいる。入眠と覚醒の間にある感性の場所だ。眠れない者が
安心したまえ。キミも直ぐに眠れるさ。そうだ、それまで僕と話でもしよう。ここで出会えたのも何かの縁だろうからね。じゃあ、身体の力を抜いて。そして思考を全て保留にするんだ。今は何も決定してはならない。全ての不安は今だけ、凍結される。何も心配しなくていいんだ。ただ、キミは浮遊しながら存在を継続させればいい。全ての現象はキミの存在に置き換わる。世界で今、唯一重要なのはキミが存在しているということだ。いいかい? さあ、深呼吸して。リラックスしようなんて思わなくていい。ただ、そこにいて。
さあ、今夜の話を始めよう。
しばらく前から降り始めた雨はなかなか止まなかった。薄暗い部屋の窓辺から男が通りを
犬が一匹、細い細い路地へと駆けこんでいった。静かな部屋に雨の音が響く。男はひと口珈琲を飲んだ。再び、通りに目をやると、黒い傘をさした女がこちらへやってくる。傘だけでなく、身につけている衣服もまた、黒かった。男はその女を見つめていた。寂しい通りと、そこを歩いてくる女。なんのことはない光景だが、男にとって、それは不思議と目が離せなくなるものであった。とうとう女は男がいる部屋の窓の前までやってきて立ち止まった。そして、不思議そうに部屋の中を
女は窓から離れた。
もうしばらくはだれも住んでいないであろうその
気がつくと、もう雨は上がっていた。女は傘をたたむと、少し日の差し始めた明るい通りをまた歩き始めた。
ただ、これだけの話だ。どうだい? 気に入ってもらえたら、嬉しいな。そう。なんでもないんだ。この物語に出てきた雨が、男が、女性が何のメタファーなのかなんて、作者の私にも分からない。でも、そんなことはどうでもいい。大切なのはキミがこの話を聞いてくれて、僕とキミが世界を共有したという事実だ。
さあ、入眠までもう少しだ。大丈夫、安心して。きっと眠れるさ。僕の話を聞いてくれた時みたいに、全てを保留にして自分以外を凍結させてしまえばいい。じゃあ、また会おうね。おやすみ。
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