第11話

〇市街レイヤー調整課


2回目の残灯村訪問から数日。

個人用に与えられた作業ブースで、ナツメはデータを見つめていた。青白いホログラムが、待ちくたびれたようにチカチカと瞬く。


「……」


支援AIが次々に提案を表示する。

"候補A メイン案内の文字サイズの拡大"

"候補B メイン案内の文字点滅タイミングの延長"

"候補C メイン案内の文字色調の変更"


いつもなら、自然に手が動き、業務に集中する。この選択肢から選ぶことで、自分の作業の効果を実感した。

しかし今日は、指先が止まったままだ。

——選べない。


ただの疲労ではない。残灯村から戻ったあの日、自宅で行動ログを開いたときから、ずっと続いている。水の中で衣服を着て泳いでいるような抵抗感。呼吸も、行動も、問題なくできているのに、なぜか前に進めない。


“お前は何もできていない、機械に従え”

青年の言葉を思い出す。


ナツメのあの日の行動ログは空白だった。村で過ごした数時間が、まるでこの世界に存在しなかったかのように。センサーがないことに由来する事象のはずだが、あんなにたくさんいた人々を無視するかのようなシステムの振る舞いは、ナツメの中で何かを確かに変えた。


その日から、朝の出勤ルートの際もナツメは選べなくなった。


ホログラムの光がナツメの瞳を青く染め、通勤ルートの地図を投影している。その画面からE.L.S.I.Aの声がルートを提案するも、ナツメは何を選ぶこともできない。


ルート案内を見ながら、もう何度も通った道を自分の足で歩く。存外E.L.S.I.Aから干渉はない。小さい頃、いたずらをたくらんだ時のあの高揚感に近い感覚を覚えていた。


都市核の朝はいつも通りだ。朝の日光は人工調整された空気のおかげでいつも快適で、出勤する人々の感情を落ち着かせてくれる。だが、その整いすぎた景色が今は妙に落ち着かない。


——残灯村では、システムがなくても生きていけた。

あの火の温度が、まだ手に残っている気がした。


〇退勤


いつものように、ほとんど業務が進んでいないまま退勤する。


“感情曲線の低下が検知されました。メンタル補助ルートを推奨します”


外に出ると、夜風が吹いていた。都市の灯りは均一だ。街路樹の葉はすべて同じ方向に揺れ、広告塔の女が微笑むタイミングまでが演算で制御されている。それが“安心”の象徴だと知っている。

けれど今は、その均整が、皮膚の裏側を撫でるように不快だった。


音声案内を無視し、歩き始めようとした、その時。


「……ナツメさん」


静かな声がした。

振り向くと、フードを被った人物が立っている。顔の下半分を布で覆い、手には小さなデバイスを持っている。露出した瞳の周りにはうっすらと煤が残り、そこだけが奇妙に人間的だった。


濃いグレーの布地は、ところどころが焦げている。乾いた泥が裾にこびりつき、繊維がほつれたその服は、決して綺麗とは言えないものの、どこか、"生きている”ように見えた。


都市核中心部からはやや離れた場所あたりで、たまにも物好きな商人が古くなった服を集めて露店を開いているのをナツメは見かけたことがある。しかし、そこで売られているような時の経ち方ではなく、都市核では見かけない“乱れ”だった。洗浄処理された衣服は常に同じ温度と質感を保つが、その人物の布地は、"くたびれている"。

焦げたような、湿ったような、そんな匂い。


年齢も性別も判然としないが、敵意はなさそうだ、ととりあえずナツメは安心する。


「残灯村に行ったでしょう」


謎の人物は、ゆっくりと口を開いた。安心したのも束の間、この人物に対する認識をナツメは改め、毅然とした態度で答えた。

「……あなたは?」

「外の人間です」

息を呑む。


——環外派。

噂には聞いていたが、実在したとは。

システムに背を向け、自分の判断を絶対とし、システムの破壊を目的とする者たち。


「あなた、感じたでしょう。自分で決めたつもりのことが、機械のたわむれにすぎないことを。でも、まだ間に合う。人間が、"自分の足”で歩く世界を取り戻すのです」


フードの下の目はまっすぐで、何かを測るようにナツメを見ている。


(なんだろう……この人、怖い)


こちらを害そうという悪意は全く感じられない。むしろ、味方である雰囲気すら感じる。しかし、その瞳の奥には、都市の光では決して生まれない“影”があった。ほんの一瞬、あの残灯村の焚き火の光と重なった気がして、ナツメは目を開いた。


"不審人物との接触を感知。保安ユニットを呼び出しますか?"


音声案内を耳にしながら、ナツメは早鐘のように鳴る心臓を落ち着かせるように、ふーっとゆっくり息を吐いた。話を聞いてみたい。自分の意思で生きてみたい。



「あの」


フードの人物はデバイスを懐に収め、「また会いましょう」とだけ言って人混みに紛れていった。 その姿をまるで隠そうとするかのように、通りの人たちは流れを止めなかった。


だが、ナツメの中には、まだその匂いが残っていた。土と、生き物の匂い。残灯村とは違う、火の匂い。それが、都市の浄化された空気をかすかに汚すように漂っている。


"不審人物との接触を感知。保安ユニットを呼び出しますか?"


ナツメはその音に答えなかった。

——ホログラムに目を向けることなく。


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