灰色の夕焼け

上川ながれ

第1話

「最近の人間製のメシも悪くないな」

「わかりますー。案外食べられるもんですね。おかわり」


カチ、と封印シールを剥がす音が小さく響いた。

湯気は出ない。中身は、豆や焦げた根菜、どろりとした灰色のスープのようである。見た目は雑だが、鉛色のイスやテーブルには似つかわしくない、あたたかい匂いが広がっていた。


金属のフォークが豆を軽く弾いた。コン、と器が鳴る。


「これ、北の残灯村からの"文化保存食"です。彼らが言うには」

「文化保存……な」

「都市核外でまだこういうの作ってる人がいるなんて、驚きですよね。手作業で」

「……まだ再配分されてないのか、あそこ。よく手に入ったなこんなの」


フォークの先でソースを少しすくい、口に入れる。

味は、悪くない。むしろ、良い。

だが「美味い」と口に出すには躊躇する。


「不安定な味ですね。濃かったり薄かったり。でも……」

「でも?」

「なんか、舌が、起きる感じしません?」

「……まあ言いたいことはわかる」


ナツメは笑い、窓の外を見やる。

今日の街路は、いつもよりわずかに白っぽい光が差している。

それが店内に反射し、壁に揺らぐ。

なぜか、心地いい。


「煮るって、感覚でやってるらしいですよ」

「はは、調理ボットもセンサーもなしでか」

「“見てればわかる”とか言うんです」

「怖えな。それでできるなら、たいしたもんだ」


ヤイヅとナツメだけの店内で短く警告音が鳴る。

都市核外北部で火災が発生したようで、「飲食物持ち込み可能」と浮かんでいたホログラムが切り替わり、酸素濃度変動により管理AIが現場封鎖を実施している旨が表示された。


「無人地区のはずだろ?……残灯村の連中か?」

ヤイヅが少しふざけた様子で言った。

「やめてくださいよ。通報されます」

「違いない。ログは確認しとけよ。味だけ覚えとけ」

「はい。何も提供しないし誰もいない、店と言っていいか怪しい場所についても記録しません」

「悪かったって。意地の悪いやつだな」


二人は食事を終えると立ち上がり外に出た。

今日の気温は安定、湿度はやや乾燥気味。

それがかえって心地よく、無意識にナツメの次の一歩を誘った。


〇市街レイヤー調整課


市街レイヤー調整課・ビジュアルユニット第4班。

ナツメの業務は公的ホログラム表示のメンテナンスである。


今のタスクは、幅広い年齢層の利用者が通う、就職支援センターの案内表示の微調整。

安心感を保ちつつ、移動を促す色調に整えたり、視線誘導しすぎず、自然に目に入る光の粒度を探ったりしているようだ。


僅かな角度の差異をシミュレーションし、利用者の行動ログと照合した後、業務支援AIが提案した候補A・B・Cから、ナツメはBを基準に作業を行った。


「……なんか、いい感じ」

彼女は自分にそう言った。


〇退勤


「おつしたー」

斜め向かいのデスクから、ヨシダが軽い調子で手を振る。

ナツメも微笑み返す。


「ヤイヅさんとのランチ、どこ行ったんです?」

「……何もないとこですよ。わたしがたまたま持ってた残灯村のスープを食べました」

「珍しいもん持ってるっすね。そんな趣味あったんですか」

「いえ、ランチ行く時ふと寄ったゲートで配ってたんです。手作りスープですって宣伝してました」

ヨシダは少し驚いた。

「へぇ。環外派に感化されたんですかね。あいつらが都市核に出るなんて」

「内緒にしてくださいね」

「あーもちろんすよ。ナツメさんが再配分されたら寂しいじゃないですか。じゃ、おつかれすー」

「お願いしますね。お疲れさまです」

「…そういえば」

声を少しひそめ、ヨシダが言った。

「ヤイヅさんが西の第4ゲートで見られたって話があります。気をつけてくださいね」

ナツメは笑いながら答えた。

「ヤイヅさんが環外派ってことですか?前うちにいたときそんな様子なかったじゃないですか」

「もちろん。ただの噂話っすよ!」


ヨシダは再生パックのコーヒーを吸いながら、ひらひらと手を振って去っていく。

紙パックはあのスープと違っていい匂いがしないな、なんて思いながら、ナツメも荷物をまとめた。


歩道に出ると、空気が少し甘く感じられた。

湿度も適度で、涼やかに吹く風は頬に優しい。

交差点の先、夕陽が柔らかく入り込んで心地よく光り、鳥たちが気持ちよさそうに飛んでいる。

ほんのわずかに傾斜した道が、ナツメの帰路を促した。


「ヤイヅさんが環外派なら都市核外産なんて食べないじゃん」

呟きは、すぐに風に消えた。


〇自室


ソファーに腰掛けたナツメは、やや怪訝な表情でホログラムモニターを眺めていた。

昼の行動ログには“ヤイヅと昼食"と記録されている。歩幅・心拍・血圧など、すべて標準で、逸脱率や異常値は記録されていない。


何も問題はない。


(やっぱり。変なとこなんてない。行動ログなんて当てにならないもんだな)

自分の1日を振り返り終えたナツメはホログラムを消し、自室にあった都市核産のコーヒーを淹れた。何気なく開けた棚から出てきたものだ。


カップを手に持つと、確かに温かい。

飲み口の大きく開いた安価なセラミックカップからは、こんこんと一定の湯気が立っている。

香りもよく、非の打ち所がない。嫌な味ではなく──むしろ、調理ボットのコーヒーは美味しい。ナツメは目を細めた。


室内照明が、自動でやや暗くなった。

“最適な休息照度”と部屋のモニターが通知する。

どうやら部屋の生活支援AIが休息を促しているようだ。


残灯村のスープなんか食べるから考え事が増えた、とナツメは心の中でこぼしながら、寝支度を始めた。


喉の奥がかすかに鳴る。

体温は正常、呼吸も整っている。

ただどこか、胸の奥に、あの焦げた匂いが残っている。


こーん。

“感情曲線:極微小な乱れ 逸脱率0.02%”

ナツメの行動ログが静かに更新された。

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