ずれていく「先輩」の話。
村雨シスタ
第1話
。 、 。 、 。 、 。
「だーれだっ」
。 …… 、 、 。 ? ? 。 。
「んー? もしもーし?」
、 。 、 。 、 。
「あ。そっか、……じゃあもう一回、」
、 。 、
「だーれだっ」
音もなく忍び寄ってきた先輩に雑に視界をふさがれて、その指のすき間から射し込む半透明の明かりと温もりをまぶた越しに感じながら、わたしは少し息を吐いた。だって心臓がばくばくいうんだもん。っていうの先輩に悟られたらまたいつもの感じでにやーってしてきそうだし、普通にする。普通にするの。──こんなことしてくる暇人、先輩ぐらいですよ。
「もう、つれないなぁ。でもほんとは玲奈ちゃんも期待しちゃってたり~?」
してません。
ってわざわざ口にするのもだるいし、ほっぺた突いてくる先輩の指を払って無言でその場にしゃがみ込んだ。先輩も一緒に腰掛けてくれる。高校の東校舎の三階からさらに上ったとこ、だいたいいつも閉鎖されてる屋上への入り口。お昼休み、どこにも居られないわたしの居場所はいつもここだった。
なのに、遥香先輩に見つかってから、もう全部めちゃくちゃだよ。
「お、今日も玉子焼きじゃーん。ねぇ一口いい?」
つまもうとしてくる先輩の指からお弁当箱をよけて、膝の上に置き直す。それでも伸びてくる指先をパシッと払う。先輩、お行儀わるいです。
「いいじゃん一口ぐらいさあ! 玲奈ちゃん家のお弁当おいしいんだもん!」
先輩のためのお弁当じゃありません。……でもまぁ、ほんとは食欲あんまないし先輩にあげちゃってもいいんだけど、そしたら調子乗って唐揚げとかデザートのオレンジまで手を出してくるから気を許しちゃいけないんだった。ついでに言うと先輩の一口は結構おっきい。だから先輩にエサをあげてはいけません。なついてくるから。
言ってるそばからそんなしょんぼりした顔してくるし。
「むぅー、玲奈ちゃんは先輩に対する〝敬意〟ってやつが足りないんじゃないかなっ」
ほっぺた膨らませて敬意とか言ってくる。どこに敬意があるんですか。先輩のおっきな目から視線をそらすと、無駄にスタイルのいいセーラー服姿も見ないように……あれ、赤?
「ん、どしたの玲奈ちゃん? あっ、ぱんつみてた? えっち!」
違いますよ!
ていうか見えそうな座り方しないでください! こっちが恥ずかしいです!
わたしが目に入ったのは、そっちじゃなくって、胸元できゅるっと結ばれた学校指定のスカーフの方で。そう、赤。わたしと同じ学年の色。
……先輩って、三年生になったんじゃないんですか?
わたしがスカーフの端っこをつまんで問い詰めると、先輩ったら目を泳がせながら、「いやー、その、ね? うっかり留年しちゃった……的な? あははっ」とかって。やっぱり、なんか今日違和感あったんだ。わたしはげっそりとため息をつく。留年って、うっかりとかそういう問題じゃないでしょう。
「ちょっと玲奈ちゃーん? ため息つくと幸せが逃げちゃうんだよ?」
うわあ。うざ。
「ま、おいしいものでも食べて、元気だしな?」
ってお弁当を差し出してくる。先輩それはわたしのお弁当です。あと玉子焼き食べたでしょ。こら。
「まぁでもさ、考えてみてよ! これで玲奈ちゃんと同級生になるんだよ? 憧れの先輩と同じ教室でお勉強、うれしくない?」
留年する先輩にどう憧れろって言うんですか。
「ほらほら、そんな顔しなーいの、あっなんなら玲奈ちゃん今度からタメ口にしてみない? 同級生だし! 距離縮まりそうじゃん!」
……いいんだね。本当にそれで。
「怖っ?! なんか逆に距離が開いた感じしたんだけど!?」
というか、先輩も距離とか縮めたいなら先輩らしいとこ見せてくださいよ。わたしは言ってやる。先輩が先輩らしいとこ、今年入って見たことないです。
「そんなあ!」
泣きそうな顔で抗議してくる先輩。でも唇の横にごはんつぶ付いてる。もう絡まない方がいいのかもしれない。ていうかわたし、こんなキャラじゃなかったはずだ。ほんとはもっとこう、だめな先輩でも尊敬できるところを探して、というか変な先輩とは絡まないで、学園生活とか、いい感じにこう、
「ま、でもこれも玲奈ちゃんのキャラ的には愛情の裏返しだもんねぇ」
無視して口に詰め込んだ唐揚げが喉に引っかかる。うぐ。先輩が午後ティー渡してくれる(わたしのだけど)。ありがとうございます。でも「ごほうびのちゅー」とかくだらない発言は無視する。先輩のことは無視するに限る。
と、その時。
階段の下の方でザラザラした笑い声が上がった。
肩がこわばる。指が震える気がする。息の仕方がわかんなくなる。やばい、隠れなきゃ。
お弁当をしまって階段の陰に身を潜める。こんなとこ、見つかったら……わたし、ここにも居られなくなる。ただでさえどこにも居られないのに。こんな姿、誰にも見られたくないのに。
そしたら、先輩までわたしの隣にしゃがみ込んで身を隠した。先輩はばれたって平気なのに、わたしに付き添ってくれる。先輩は他の人のことなんてどうでもいいはずなのに、わたしが変に震えてくる手をそっと取って、重ねてくる。なんでだろ、先輩の手の感触が伝わって、そこだけ大丈夫な感じがしてくる。
「……かくれんぼ、みたいだね?」
急に耳元でささやかないでください。
顔が熱くなってきて、もう何がなんだかわかんなくなるけど、なんかそれでもいいやって気分になってくる。ふざけてると見つかりますよ。それだけ、わたしが言うと「へーきへーき! 誰にもバレないって」と笑ってくれる。ああ、そういう顔するから、先輩のこと夢にも出てきちゃうんだってば。うざいなあ、ほんと。まぶしくって。
そんなことしてたらチャイムが鳴った。昼休みが終わってしまう。もう行かなきゃいけない。行くって、どこへ? ……教室へ。そうだ。わたしは授業を受けなければならない。教室へ行かなければならない。
「いいじゃん、サボっちゃいなよ! お外、桜もきれいだし、あったかいよ~?」
そんなことしてるから留年するんじゃないですか。とかってツッコミたくなるのをこらえて、とにかく先輩の言葉に耳を貸さないようにして屋上の入り口を後にする。ひらひらと手を振る先輩から目をそらして階段を降りてく途中、窓の外に目が行ってしまう。校庭の桜は満開で、真っ白く見える花びらがひらひら落ちて点描みたいに地上を染めていて、そんな木陰をちろちろ走る小鳥が弾みでまぶしい空へと飛び立っていく。……だめだ。わたしは、教室に、行かなければならない。
人の騒ぐ声が苦手だった。
耳を突き刺すような笑い声は苦しくなる。
二階の暗い廊下を抜けて、女子トイレと水道の前を通り抜けて、教室ひとつめ、教室ふたつめ、あと一歩、だめだ、着いてしまう、あと一歩先の教室の扉をいままさに開けようとした時──中で誰かの叫び声がした。固まる。窓の向こう、教室の中でクラスの女の子が手をばたばたさせてる──虫、たぶん蜂かなにかが入ったみたい。窓の外に追いやろうとしてる、ただそれだけ、なのにわたしの足がもう動かない。いけ、開けろ、先生が来ないうちに教室に入って五時間目の授業を受けるんだ、早く、変な目で見られないように、はやく、
──高嶋さん、授業始まるわよ?
あ、
みられた、
みんなが、こっち、みてる
っ、すみません、(だめだ普通にしろ普通にするんだって)だいじょうぶ、大丈夫です、(いいから普通になれ大丈夫になれ)っ、ごめんなさい、先生、ちょっと(先生まで顔色悪そうなんて言ってくる、本当に無理になる、ちがう、)そう違うの違うんですこれは別にわたし変になったとかじゃなくってただちょっと息ができなくて気持ち悪くて今すぐ吐きそうな感じしてるだけで大丈夫です大丈夫です大丈夫です先生気にしないで見ないでくださいすみませんちょっとトイレ行ってきますすみません次の授業には戻りますから(身体がおちる、しゃがみ込んでしまう)、大丈夫です、大丈夫だから大丈夫なんです──
あぁああ……
──便器を抱えながら、流れてく水をぼんやり見つめながら、口、ゆすがなきゃなぁって思ってた、気づいたら。さっき食べたお昼、ほとんど全部出しちゃった気がする。こんなことなら、先輩に全部あげればよかったのに。お母さんに悪いと思わないの? うるさいうるさいうるさい! 胃液か何かで喉がひりついて涙が出そうになる。
もう授業は始まってるし、今更あんなやばいとこ見られて教室になんて入れないし、結局わたしはどこにも居られない。あの目がだめだった。みんなの、名前も知らないクラスメイトたちの、先生の、わたしの身体を突き刺すような目がもう無理だった。……またぶり返して、少し出す。もう一度流す。いつまで続くんだろう、こんな人生。もうやめようって決めたのに、それさえも無理だったから。
ああ、また今日もだめだった。午前中はまだ大丈夫だったのに。今度こそ普通になろうとしたのに。
洗面所で口をゆすぐのにも慣れてしまった。トイレから出て、余ってた午後ティーのぬるいのを喉に流し込んだ。うんざりするくらい晴れてて、逃げ場なんてなくす勢いで陽が差してて、廊下の窓に映ったわたしの顔はほとんど透明で消えそうだった。なんとなく先輩のこと思い出して、こんな姿見せたら先輩にも失望されちゃうんだろうなって、それだけだった。
先生、すみません。気分が、悪くって。
保健室に着いて、もう落ち着いて嘘なのかわからない言葉を投げたら、先生は奥のベッドを貸してくれた。わたしがどういう生徒か分かっていて、もう諦められてるんだと思う。いつものことだから。どうせわたしは変われないから。外の光から逃げるようにして、ベッドの中でシーツを頭からかぶった。目を閉じても、光の残像が消えずに痛めつけてくるの。指先の震えがずっと止まらなくって。ていうか、なんで生きてるの?
わからなかった、なにもかも。わたしの人生どっから間違えたんだろうって思っても、最初っから、生まれてきたことが間違いだったような気がしてくる。
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