サブスクリプション型アイデンティティ障害
Vii
『いいね』の先にある"本当の"価値の見つけ方
朝。俺は、神の仕事の始まりをベッドの中から告げる。
スマートフォンの冷たい光が、まだ薄暗い部屋に青白い矩形を描き出す。
俺は光の板を操り、自社プラットフォーム『アイデンティティ・ストア』の管理画面を呼び出した。昨日のデイリー売上ランキング、その頂点に君臨する文字列を、指先でゆっくりとなぞる。
画面の滑らかな感触だけが、そこにある事実を肯定していた。
口元がわずかに歪む。感情の伴わない、筋肉の収縮運動だった。
『ポエティック鬱(アンニュイお試しパック)』
月額480円。
実に、結構なことだ。
凡夫どもは今日も、俺の作った安物の憂鬱をサブスクライブし、その感傷に浸っているらしい。雨も降っていないのに、世界が灰色に見えるのだという。
その程度の脆弱な感性のために、彼らは喜んで金を払う。
救いようがない。そして、それがいい。
「さて、今日の獲物は……」
俺は身を起こし、書斎のモニターへと向かう。
そこには、俺の被造物たちが蠢く生態系――『アイデンティティ・ストア』のタイムラインが、無限に流れ続けていた。
最初の観察対象は、ハンドルネーム『@melancholy_coffee』。
ポエティック鬱のヘビーユーザーだ。今日も今日とて、実に模範的な投稿を捧げてくれている。
青みがかったフィルターのかかったコーヒーカップの写真。湯気はとうに消えている。その横に、申し訳程度に開かれた難解そうな詩集。
もちろん、こいつが読めるはずもない。添えられたテキストが、また傑作だった。
『世界の色彩が、また一つ失われた気がする。この気怠さは、どこから来るのだろう。誰も、本当の私を理解してはくれないのかもしれない… #ポエティック鬱 #アンニュイな一日』
俺はキーボードに指を置き、無言で彼女の十数時間前のアクティビティを検索する。
カチャカチャ、という無機質な音だけが、書斎の静寂を切り裂いた。
予測通りだ。友人たちとパンケーキを囲み、満面の笑みでピースサインを掲げる彼女の写真が、別のアカウントにタグ付けされている。
口元には、生クリームの痕跡。
俺はエンターキーを押し、検索結果のウィンドウを閉じた。まるでチェスの駒を一つ進めたかのような、静かな満足感が胸を満たす。
素晴らしい。この見事なまでの自己欺瞞。感情の切り替えの早さこそ、『お試しパック』の真骨頂だ。
本物の鬱は、パンケーキを喉に通す気力さえ奪い去る。だが、こいつに必要なのは精神科医の処方箋じゃない。「繊細だね」「大丈夫?」という、凡庸なリプライだけだ。
ほら、もう既に5件も同情的なコメントがぶら下がっている。実に効率的な承認欲求の自家発電システムだ。
奴らは悲劇に酔い、同情を啜って生きている。俺の敷いたレールの上を、実に忠実に。
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