第6話 僕は人を信じられない

 僕は洗面所の方に慌てて体を向けた。

 

 あの時の吐き気まで、思い出してしまった。胃の中にあるものが、食道から逆流してきた。僕は手洗い場に吐いた。

 静かな暗闇の中で僕のえづきだけが響く。その声は僕の喉から出たものと思えなかった。

 胃酸の苦さが口の中に広がる。酸っぱい臭いがした。その臭いもまた、吐き気を誘う。

 

 僕は泡を吐いた。もう何も吐けないのに、吐き気がとまらない。胃酸が喉にしみ、目尻に涙が溜まった。

 

 僕はいじめの記憶をすべて吐き出してしまいたかった。目に、耳に、肌に刻み込まれた屈辱を消してしまいたかった。

 

「大丈夫か?」

 

 佐伯の声がした。僕は蛇口をひねって水を出した。吐いたものを見られたくなかった。

 

「……光輝、どうしたんだよ」

 

 スニーカーのつま先が視界に入り、見上げると佐伯が立っていた。佐伯が戻ってきたことに、安心できなかった。吐いている姿を見られたと思うと、羞恥心で余計に気分が悪くなる。

 

 僕は掌に水をすくい、口をすすいだ。苦さは消えなかった。

 

「風邪だよ。そんなにたいしたことない」

 

 胃酸で喉をやられ、僕の声はかすれていた。蛇口を止めてトイレを出る。帽子を深くかぶった。

 

「用務員室で横になった方がいいって。俺が代わりに警備してやるよ」

 

 佐伯が僕の手から懐中電灯を取ろうとした。僕は彼の手を避けた。

 

「大丈夫だよ」

 

「なぁ、まだ怒ってる? ごめんな、脅かしたりして。俺ってうざいよな。自覚してるんだよ、マジで。彼女と別れた理由もそれでさ、すっげぇ反省するんだけど」

 

 佐伯が溜息をつく。僕は首を横に振った。

 

「怒ってない。ただ、今日は具合が悪いから無愛想になって……」

 

「だから、休めって今日は。俺も警備員だったからさ、ちゃんとできるって」

 

 前を照らしていた光が止まった。僕の足が止まったのだ。

 

「本当に、平気だから。それにあと四階で終わりだろ」

 

 僕は階段の一段目を踏みしめる。階段の隅には砂埃が溜まっていた。三階に上がり、理科室を開けると、独特の臭いがした。アルコールランプの消毒液と、硫黄が混じったような臭いだ。六台ある扇形のテーブルに光を当て、教室の後ろにある得体のしれないビーカーが並んだ棚から目をそらし、僕は理科室のドアを閉めた。

 

「あれ、気持ち悪いよな。ああいうの、授業で使わないのにさ」

 

 佐伯がひそめた声で言う。

 そうだな、と僕は答えた。さまよう心を、あるべき場所へと手繰り寄せる。

 なかなか戻ってこない。心臓の音は乱れっぱなしで苛立つ。僕は懐中電灯で照らし、目で見た映像を頭にうまく取り込めなかった。

 

 僕の歩くペースは早くなっていた。佐伯が距離を置きながら、無言でついてくる。僕は時々振り返って、彼がいるか確かめた。

 

 佐伯は何かを考えこんでいるような顔で、僕の表情を伺ってくる。その目が僕はうっとうしく、振り払うように歩いた。

 

 警備室に戻って、僕はスポーツドリンクを少しずつ喉に流した。

 苦さが消えて、ほのかな甘さが残る。吐いた時の苦しさが嘘のように、胃の中は清々しい。

 

 ワーキングチェアに腰をすえると、心があるべき場所へと戻ってきた。

 

 息を深く吸って吐く。こうして僕はいじめをやり過ごしてきた。どんな辛い時間もいつかは去っていく。心配することはない。

 

 僕は時計を見上げた。黒い針が九時半を差している。これからの長い勤務時間にうんざりしている間に、一日は終わっていくのだ。

 

「なぁ、光輝。おまえ、音楽は何で聞いてる?」

 

 佐伯が尋ねてきた。僕の方に体を向け、頬杖をついている。

 

「Spotifyだよ」

 

「あー、Spotifyなぁ。生きてる間に試してみればよかったなー。俺はMVとか好きでいっつもYouTubeで音楽聴いてた」

 

「僕はYouTubeでライブ映像を観るのが好きだよ」

 

 何気ない話に僕はほっとする。

 

「それわかる、ライブ映像いいよな!」

 

「佐伯が好きなライブ映像ってどんなの?」

 

「ロックバンド! グリーン・デイとかレッチリとかな。楽器演奏してるカッケェのを観るのが好きだった」

 

 佐伯が笑った。

 

「わかる、僕も演奏してるのを観るのが好きだ」

 

 僕も笑う。

 

 モニターを見る。灰色の画面に変化はない。校門の桜の木が、手を振るように枝の先を揺らしていた。強い風が吹いているらしい。

 

 黒い針が時間を進める。僕は参考書の要点をまとめたレポートに目を通した。

 

 頬杖をついた格好の佐伯は、色が薄くなっていた。それでもさっきのように消えてしまうことはない。消えている間、彼はどこにいたのだろう。

 

「電池、入れ替えておくな」

 

 佐伯が懐中電灯を手にとって言った。

「たぶん、もうすぐ切れると思う。さっき見たとき、光の色が悪くなってた」

 

 机の二番目の引き出しから電池を出し、佐伯が懐中電灯の胴体部分にある蓋をスライドし、電池を取り替える。

 

「俺、幽霊だけど結構役に立つだろ?」

 

「助かるよ。ありがとう」

 

 佐伯が古い電池を床に落とした。僕はかがんで拾い上げる。

 

「おまえといると、まるで生きているみたいな気がするんだ。でもおまえは、結局俺のこと、幽霊としか思ってないだろ。生きていない、友達にもなれやしないって」

 

 佐伯の声が、耳の傍で聞こえた。

 

 僕は電池を拾った姿勢のまま、動けない。秒針の進む音が耳に痛い。佐伯が僕の答えを待っていた。僕は首を横に振った。

 

「いいって、嘘つかなくて。たぶんおまえって優しすぎてさ、ストレス溜めるタイプだろ? たまには、はっきり言っちまえよ。幽霊だもんな。普通に付き合えって言われても無理か。でも、俺はおまえに取り憑いたりはしないよ。わかんねーもん、取り憑き方とか」

 

 僕は電池を握り締めた。胸の奥が冷たくなった。体勢を戻し、電池を机の上に置く。

 

「ごめん、変な態度とって。僕は佐伯が幽霊で怖いとか、思ったことないよ。夜中、一人で仕事しなくて助かってる」

 

 僕は佐伯の方を見ずに言った。

 

「出たよ、本音が」佐伯が小さく笑った。「本当は怖いと思ってる。おまえ、気づいてる? ときどき、おびえた顔してる。そのくせ、俺がちゃんといるか見てる。消えてくれれば安心なんだ」

 

 佐伯の声が震えていた。僕はきつく電池を握った。僕は自分に問う。どう答えたいのか、佐伯を怖がっているか、嫌っているか。どちらでもない。

 

「……いいよ、もう。……俺のこと嫌いな理由教えろなんて、すっげぇうざいよな。幽霊とオトモダチなんて、マジで勘弁してほしいよね」

 

 佐伯の声が遠くなった。

 

「違うんだ」

 

 考えるより早く、口が動いていた。

 

「違う。勘弁してほしいなんて思ってない。本当なんだ……友達になりたいって思ってる。佐伯のせいじゃないんだ。僕が悪いんだ。人付き合いが下手で、どうすればいいかよくわからなくて……」

 

 まとまらない考えを言葉にする。僕はどう受け止められたか心配で佐伯を見た。佐伯は怒った顔をしていなかった。

 

「友達になりたいとか、改めて言われると照れるって。別に俺はおまえを責めてる訳じゃないんだよ。ただ、おまえの態度が気になっただけ。友達ならさ、さっき吐いてた理由とか、話してくれないと。悩みがあるんだったら、話した方がすっきりするって」

 

 佐伯の刺々しい態度があっという間に柔らかくなったので、僕は肩透かしをくらった。緊張していた体がほぐれていく。

 

 佐伯は僕の言葉を信じてくれたのだ。そして僕は、本音が言えたのだ。

 すべてを話してしまおうか。

 

 話して楽になれると思ったことはなかった。思い出すのも嫌で、どう反応されるか怖かった。けれど、佐伯は僕の吐いた理由を知りたいという。

 

 僕は深く息を吸い込み、吐き出した。体の力がすべて抜けていく。机に古い電池が転がった。

 

「いじめにあってたんだ。中学時代。さっきはそれを思い出して……気持ち悪くなって吐いてしまった」

 

 僕の声には、言いづらそうな重さがなかった。そのことに僕自身が驚いていた。すべてをあっさり話せてしまうんじゃないか。そんな気がした。

 

「トイレに閉じ込められて、水をかけられた。それがいじめの始まりだった。よくあるだろう? トイレでいじめられるって……僕は典型的ないじめられっ子だったと思う。気が弱くて、これといって得意技もなく、目立たなくて。僕はそのことを当時は自覚していなかった。けれど友人……たぶん、僕がそう思っていた奴等は、僕をいじめられっ子に適した奴だと気がついたんだろう」

 

 僕は他人のことを話すように、ぺらぺらとよく喋る自分に呆れた。呆れながらも動き出した舌を止められなかった。

 

「上履きを隠されたり、殴られたり、机にイタズラ書きをされたり。いじめも時が経つにつれ、だんだんワンパターンになって、慣れていったな。

 そのうちいじめは学年全体に広まって、僕はいじめられても仕方ない奴という目で見られていた。

 女子にもペンケースをゴミ箱に捨てられたり……親にも先生にも話す気にもなれず、ひたすら耐えた。

 僕に悪い所があって直そうとしたけど、同じだった。いじめられても仕方ない奴、というレッテルはなかなかはがせそうになく、僕はそのうち諦めた。いじめがひどかったのは半年で、学年が変わると暴力をふるわれたり、物を隠されることはなくなった。後は無視と、たまに悪口を言われるぐらいで……」

 

 僕は佐伯の方を見た。彼はさっき見た時と同じ姿勢だった。落ち着きがなく、五分ごとに姿勢が変わっていたのに。僕はそろそろ話を切り上げようと思った。聞いていて快い話ではない。

 

「でも、僕よりも壮絶ないじめに遭った人もいるだろうし。もう、終わったことだ」

 

 時計を見上げると、巡回の時刻だ。僕は懐中電灯を手にし、席を立った。

 

「……苦しかったよな」

 

 佐伯が顔を上げ、つぶやいた。

 

「十分、ひどいって。つらかっただろう? ひどいよな、そいつら……」

 

 佐伯は痛ましそうな顔をしていた。

 

「よく耐えてきたな、頑張ったんだな」

 佐伯がやさしい声で言った。

 

 そうだ、僕は苦しかったのだ。そして、今でも苦しいのだ。

 

 いじめた奴を憎むこともある。でも、どうしても自分が悪かったという思いが消えない。卑屈な思考がいじめられる原因だとわかっている。しかし、変わろうとしても、いじめの記憶が邪魔をして、前へ進もうとする僕を押し返した。

 

「人を……」

 

 僕の声は震えていた。

 

「人を信じられないんだ……あの日から、ずっと。ずっと、引きずってて……僕なんかが人を信じても、裏切られることが、怖くて……僕が悪いから、いじめられたんじゃないかって」

 

 瞬きをすると、水の中にいるみたいだった。涙が瞳に道をつくり、溢れ出て頬をぬらす。

 

「そんな風に思うなよ。そう思ったら、いじめた奴の思うツボだろ? な、もっと自信持てって」

 

 肩にかすかな重みを感じた。佐伯の手が僕の肩の上にあった。

 

 ずっと誰かに認めてほしかった。

 苦しかったな、よく耐えたな、おまえは悪くないよ、ずっとその言葉がほしかった。

 涙は顎をつたって、机に落ちた。

 凍えていた血が流れ出し、心臓はとくとくと鳴っていた。

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