光を食べる
なつのあゆみ
第1話 真夜中の音楽室にて
雨が降る、僕の緊張に冷たく染み込んだ。
初めてのことが苦手だ。新しい勤務先に行く日に雨が降らないでほしかった。
小さな坂を下ると、中学校の門があった。薄汚れたベージュの、四角い建物。
門の向こうでは大きな桜の木が、黒い枝を空へと伸ばしている。
閉じられた白い門扉には、無断で入ることを禁じる注意書きの板が、針金で固定してあった。錆びた針金と、赤い手書きの文字には門扉に触れることをためらわせる。
大学受験に失敗し、四月から警備のアルバイトを始めた。ビルの夜間警備の仕事は、僕の性に合っていた。人と接することがないからだ。
しかも日給がいい。同じくビルに配属されたおじさんもいい人で、このアルバイトならば長く続けられると思った。
だが今月、僕は突然この中学校への勤務を告げられた。断りたかったが、頼み込まれると断れず、結局うなずいてしまった。来月で辞めると決めていたし、一か月だけなら我慢できるだろうと思ったのだ。
勤務は週三日。ビルの警備より少ないシフトで、受験に向けてちょうどよかった。仕事として文句はない。
僕はレンガの門に取り付けられた、カメラ付きのインターホンを押した。近代的な白いインターホンはレンガと合わない。
「はい。ご用件は何ですか?」
事務的な、太い男の声が答えた。
「警備会社から派遣されてきました。石田光輝です」
僕はカメラに姿が映るよう、インターホンの前に立って答えた。
「ああ、ちょっと待っててくれ」
急に親しい声に変わった。僕ははい、と答えて待った。
警備員の制服を着た男が出てきて、門を開けてくれた。近くで見ると、恰幅のいいおじさんだった。おじさんは紺色の帽子をとって僕を見た。太い眉の下で、どんぐり眼がぎょろりと動く。
「早かったな。ほら、入れ」
おじさんが僕にそう促した。初対面なのに、おじさんは僕のことを知っているような態度だ。
僕は門の中へ踏み込んだ。
口に溜まった唾を飲む。教科書を詰め込んだ鞄の重さを思い出してしまった。僕は何度も唾を飲み込んだ。
「俺は熊川だ。昼から夕方の警備を任されている。交替のときに顔を合わせるだろう。よろしくな」
僕を警備室に案内しながら、熊川さんが言った。よろしくお願いします、と僕は頭を下げた。
校舎から突き出た、白い正方形の箱。それが警備室だ。シャッターが閉められた正面入り口の横を通る。三角屋根の真ん中には、鳥が羽を広げた校章がついていた。僕が通っていた中学校と大きく違うところだ。
熊川さんが警備室の鍵を開けた。細長いテーブルの上に、三台のモニターとパソコンが置かれている。部屋にはそれらの機器と、グレーのワーキングチェアがあった。
室内は四畳半ほどだが、天井まである機械が圧迫感を与え、狭く感じた。
「まずは、用務員室で着替えてこい。ここが校舎に出るドアだ。廊下に出て、すぐ前が用務員室だ」
熊川さんが僕に鍵を渡し、銀色のドアを開けてくれた。僕は熊川さんに軽く頭を下げ、警備室を出る。用務員室の前の蛍光灯だけ点き、廊下の奥は真っ暗でその先が見えない。
僕は鍵を開けて用務員室に入った。狭いたたきで靴を脱ぎ、畳の上に上がる。用務員室に入ったのは初めてだ。やかん、鍋など炊事道具が置かれた棚が気になったが、手早く着替えて私服をロッカーに入れ、警備室に戻った。
「おお、なかなか似合うじゃないか」
熊川さんが笑って言った。僕は大しておもしろくなかったけれど、口の端を緩めた。
「この部屋の説明を始める。一度しか言わないから、ちゃんと聞いとけよ」
熊川さんがモニターを指差して、機能を説明していく。ビルにあったモニターと使い方は同じだ。熊川さんは時々僕の方を見ながら、仕事の内容と注意点を話した。熊川さんの説明は具体的で、僕はこれならば一人でできるだろうと思った。
「今日みたいに少し早くに来てもらったら助かるよ。前の奴は時間ぎりぎりにならないと来ないし、遅刻もしょっちゅうだったからなぁ」
熊川さんの眉はひそめられていたが、口は笑っていた。
「年は確か、おまえと同じぐらいだったか……」
熊川さんはそう言うと、ふと悲しげな目つきになった。
「じゃあ、俺は帰るな。緊急事態が起きたら、説明した通りにしてくれよ。色々と物騒だから、気をつけてな。鍵はこれだ」
たくさんの鍵が紐で結びつけられた木の板を手渡してから、ぽん、と熊川さんが僕の肩を叩いた。
「はい。お疲れさまです」
僕が頭を下げると、熊川さんが笑い声をあげる。何かおかしなことでもしただろうか、と戸惑っていると、また熊川さんが僕の肩を叩いた。
「おまえはほんとに、真面目そうだな」
笑いながら熊川さんが、校舎側にあるドアを開けて警備室を出ていった。悪い印象は持たれていないようでほっとする。
僕はワーキングチェアに座り、壁の中央にかけられた時計を見た。正方形の大きな時計だ。黒い針が七時を指している。あと一時間後に初めての見回りだ。
モニターを見る。校舎裏や正門を監視している、灰色っぽい画面には人が写っていない。変化はなく、静止画を見ているようだ。
一時間が経過し、僕は懐中電灯を持って立ち上がった。警備室を出て、懐中電灯で廊下の先を照らす。保健室から、一室一室をチェックしていく。異常はない。警備員になったばかりの頃、トラブルがあったときの対処が不安だったが、そんな心配は無用だった。事件が起きなくても、警備を怠らない心構えを持つことが肝心だ。
つまり、退屈にひたすら辛抱すること。
下足室を見回るのは勇気がいった。
どろっと絡みついてくるような、深い闇だ。懐中電灯一つでは太刀打ちできそうにない。
僕は中学二年生のとき、四度上履きを買った。一足目は隠され、二足目はゴミ箱に捨てられ、三足目はトイレに捨てられていた。最後に買った上履きには名前を書かなかった。
石田と名前を書いた上履きが捨てられているのを、もう見たくなかったからだ。
上履きが入れられた棚の間を照らしていく。上履きが汗を吸収した、重たい臭いがする。その臭いは避けようがなく、四方から臭ってきた。
下足室、異常なし。
僕は下足室を後にして、階段を上がった。中学校時代にいじめられていなかったら、懐かしいと思えるのだろうか。
校舎の壁は冷たく、小さな亀裂がいくつもある。僕の通っていた中学校の壁もそうだった。僕はこんなにも亀裂があって、学校は崩壊しないのかと不思議だった。いっそ学校が崩れてなくなればいいと思っていた。
僕は一瞬、中学校の階段をなぜ上っているのかわからなくなった。どうしてここにいるのだろう。どうしてここに、来てしまったのだろうか。
冷たい壁に触れてみる。
中学二年生のとき、僕には三人の友達がいた。暇があれば寄り集まってゲームをした。
夏休みの宿題は得意分野を見せ合って終わらせたこともあった。しかし「友達」だったのは、半年だけだ。中間テストが終わったあとから、いじめは始まった。たまたまそのとき、僕のテストの点数がよくて、調子に乗っているという理由でいじめられた。
三年生になってクラスが変わっても、いじめは続いた。暴力をふるわれることはなくなったが、クラスメイトから無視された。いなくてもいい存在として扱われた。
肩がぶつかれば汚いと罵られ、授業で当てられて発言すると、くすくすと笑いが起きた。
いじめた奴らと離れるために、猛勉強して、通学に二時間かかる私立高校に入学した。そこで僕は変われると思っていたけれど、友達は一人もできなかった。声をかけられても、こう答えると嫌われるんじゃないか、と心配でそっけない答えしかできず、いつの間にか話しかける者はいなくなった。
僕は壁から手を離した。僕はここに、仕事をしに来た。仕事をしなければ。
教室をチェックしていく。僕は懐中電灯で暗闇を暴いていった。並んだ机の間、教壇、カーテンの陰。何もない。この広い建物にいるのは、僕だけだ。僕の気配だけがあり、僕の足音だけがする。そのことを何度も確認した。一人でいることが安心だった。
四階に上がる。この階で見回りは終わりだ。家庭科室のガス栓がすべて閉められているのを確認し、音楽室へ向かった。
ピアノの音が、僕の中に入ってきた。とん、という高くもなく、低くもない音が耳から入り、腹まで落ちた。その音の後に、はじけるように高く響く音が続いた。ゆるやかなメロディーに支えられながら、何度も何度も音がはじけた。
誰かがピアノで「星に願いを」を弾いている。
音楽室に誰かがいる。
僕は引き戸のすりガラスから、音楽室の中をのぞきこんだ。
音楽室に灯りはついていない。暗い部屋でピアノを弾いているなんて妙だ。僕は懐中電灯を握り締めた。ピアノの音はいつまでも聴いていたいほど、耳に心地いい。一つ一つの音にあざやかな色がある。
けれど、警備員として正体を確かめなければいけない。僕は引き戸を開けようとしたが、鍵が閉まっていた。どうやって中に入ったのだろう。室内から鍵をかけたのだろうか。何のために。ますます怪しい。
僕は鍵を差し込み、ゆっくりと傾けた。鍵が開く音で、演奏の邪魔をしたくないという気持ちが、そうさせた。
僕は音楽室の戸を開けた。
曲が止まる。
僕はピアノを懐中電灯で照らした。
男がいた。椅子に腰掛け、鍵盤に手を置いている。彼は驚いた顔で僕を見た。年は僕と変わらないだろう。
グレーのパーカーにジーンズという格好で、音楽の先生とは思えない。僕は男に近づき、懐中電灯で彼を照らした。肌と髪の色が淡い。顔は日本人なのに、光に溶けてしまいそうな金髪だ。
「何をしているんですか?」
僕は男に声をかけた。
男が僕を見た。瞳を見開き、驚いた顔をしている。
「俺が見えるの?」
男が言った。
「え?」
「俺が見えるんだな」
こいつ、何を言っているんだろう。見えて当たり前だ。男は瞳を輝かせて僕を見ている。僕はうなずいた。
「マジで? なあ、俺ってどう見える? はっきり見える? なんていったらいいんだろう……そうだな、生きているみたいに」
男が立ち上がり、僕に近づいてきた。よく見ると、髪の色は明るい茶色で、金髪ではない。さっきの色の淡さは、見間違いだったのだろうか。
彼の目は真剣そのものだ。怖い。僕は一歩下がる。
「なぁ、答えてくれよ。俺のこと、見えてんだろ」
男が詰め寄ってくる。ここはおとなしく答えた方がいいかもしれない。困った奴と遭遇してしまった。
「見えるよ……普通に」
とりあえず普通、と言っておけば相手は怒らないだろうと僕は考え、そう答えた。
「マジで? 俺、ユーレイなのに」
男が笑いながら言った。
「ゆうれい?」
死んだ人間の魂を意味する、あの幽霊のことだろうか。僕は何度も瞬きをした。彼の体は透けていないし、二本足で立っている。顔色は白っぽく不健康そうだが、それだけで幽霊と納得できない。こいつ、適当なことを言って逃げるつもりだ。こんなふざけた嘘をつかれるなんて、僕もなめられたものだ。
僕は男を睨んだ。
「警備室まで来てもらおうか」
男の腕をつかむ。
つかめなかった。
男の腕の中に、僕の手が入ってしまった。グレーのパーカーを着た男の腕の中に、僕の手首が飲み込まれている。僕は慌てて、手を男の腕から抜く。空気をつかんだような感触だった。つかんだ先には何もなかった。
「ほらな。俺、幽霊なんだよ」
男は笑いながら言った。
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