第22話 誰が為に鐘は鳴る

夜明け前の王都は、まだ深い青に沈んでいた。

 石畳を行く馬車の車輪が、ひんやりとした空気を切り裂くように響く。


 大聖堂の扉が静かに開かれ、燭台の灯が高い天井を金色に照らした。

 祭壇前でアルトが分厚い譜面を開き、指で各パートをなぞる。


「……管二十八、弦五十六、打六、ハープ一、パイプオルガン一」

 小声で数え上げた瞬間、ふと視線を横に流す。


 半円形に広がる座席群。

 木製の肘掛けには、かすれた古代マニール文字が一つずつ刻まれている。

 “ヴァイオリン”“トランペット”“ティンパニ”――席ごとに異なる楽器名。


 エーリが隣から覗き込み、目を見開き呟いた。


「……そういえば楽譜のパート数と、席の数、全部ぴったりですね」


アルトは写譜された楽譜と参拝席を交互に見ながらすべてを悟った。


「なるほど、そういうことだったのですね。この席は参拝者用の席などではなかったのです。 そう、大聖堂自体が演台だったのです。

 音量、倍音数、周波数、何に反応するのかはわかりませんが楽器の数も全てこの数でなければならない理由があったのです。」

アルトはぐるりと大聖堂を確かめるように見渡した。


 長年“参拝者席”と呼ばれてきたその場所は、実はこの曲のための舞台だった。

 古代の技師が、国を救うための楽曲を完全な形で響かせるためだけに設計した、演者の席――異常が起きた水門の仕掛けを元に戻すための絡繰り。


(演奏が成功しても鐘が鳴るかどうかなんて、正直わからない……)


 アルトが譜面から目を離し、静かに言う。


「ですが、やる価値はあります」


 ――その頃、王宮厨房局。


 ミヤビは巨大な陶製の大皿を前に立ち、湯気を上げるひき肉とマッシュポテトを交互に重ねていた。

 やがて香りが廊下まで広がり、奏者たちが次々と覗き込みに来る。


  やがて、大聖堂脇の広間に長いテーブルが並び、巨大な陶製の大皿が運び込まれた。



「完成です。ヴィンクルム結びのパルマンティエ。みなさんの祈りと音楽が結ばれますように」

ミヤビは聖堂には一番似つかわないエプロン姿でキャリーにのった料理と共に現れた。


 黄金色に焼き上がった巨大な『結びのパルマンティエ』は、表面がふっくらと膨らみ、ところどころから肉汁が滲んでいる。

 香ばしい香りが広間いっぱいに広がった瞬間、ざわめきが起きた。



「……これが贄ってやつか」


「でっけえ……」


「まるで丘みたいだ」


 楽団員たちが目を見張り、口々に感想を漏らす。

 中には思わず手を合わせる者までいた。


「陛下からお言葉を賜る」

 近衛騎士長が広間の隅まで聞こえる声で号令をかけた。 


 王グスタフが立ち上がり、ゆっくりとテーブルへ歩み寄る。


「我が王家には、古き伝承がある。

 聖騎士を遣わす時、特別な贄を捧げ、これに報いよ――と。

 この度は、楽師こそが聖騎士であろう。音でこの国を救う者たちだ」


 王は一拍置き、テーブルの上のパイを見渡す。


「大地の恵みと人の手が結ばれた証。三柱の神の協調を象徴する三線。

 真に理を悟りてこれを聖騎士への贄とする」


 祈りの言葉の後、ナイフが入れられると、熱気と共にひき肉の香りが溢れ出した。

 切り分けられた一皿一皿が、演者の手に渡る。

 口にした瞬間、黄金牛の旨みとバターの香りが広がり、会場の空気がふっと和らいだ。


「おい、うっめーぞこれ」「ヴィンクルムってライトの行きつけだろ今度連れてけよ」

「みんなで食べるとなんか特別ですね」「同じ皿のパイよねー」

皆、嬉々として『聖騎士の贄』を平らげた。


 腹と心を満たした彼らは、半時後手や口を洗い直し気を入れなおしてそれぞれの楽器を手に席へ向かう。

 座席に書いてある古代マニール文字を読めない楽団員もいるので、神官が誘導する。


 これから始まる演奏が何をもたらすのかは誰にもわからない。

 ただ一つ確かなのは――全員が、その時を迎える覚悟を決めていた。


 全員が席につき、楽器を構えたのを見届けると、ユリシウスが静かに立ち上がった。

 青と金の礼服が燭光を受け、わずかに輝く。


「本日のために集まってくれたすべての奏者、そして歌い手に感謝する。

 我らが奏でるのは、古の技師が遺し、今この時のためだけに響くべくして響く曲――

 『アウラ・グラティア』」


 その低く甘い声が、聖堂の空気を震わせる。


「誰も、これが何をもたらすかは知らない。だが――音は意志と祈りを結ぶだろう」


 静寂の中、エーリが舞台中央に進む。

 その足取りは迷いがなく、しかし緊張が全身を包んでいるのがわかる。


 彼女は一瞬、視線を二階の参拝席にいるミヤビとアルトに向けた。

 その表情は、不安とも、喜びとも、感謝とも取れる――

 けれどそのどれをも超えた、神々しいまでの輝きを帯びていた。


 ミヤビはただ小さく頷き、アルトは深く一礼を返した。


 ユリシウスが指揮台に立ち、両手を広げる。

 その動きに合わせて、百の楽器の息遣いがひとつに溶け合い、聖堂全体が静まり返った。


 パイプオルガンの低い和音が、ゆっくりと空気を震わせる。

 石壁に反響しながら、深く、底へと沈むような音が流れ出す。

 それは序章――祈りにも似た静謐。


 やがて、弦が細い光のように旋律を紡ぎ始め、管がその隙間に柔らかな色を差す。

 マリナ院長の指は迷いなく鍵盤を走り、オルガンの音柱が聖堂の天井へ立ち上っていく。


 舞台中央のエーリが、ゆっくりと目を閉じた。

 息を吸い、唇を開く。


 ――古代マニール語の第一声が、清らかに放たれた。

 それは言葉でありながら、同時に光でも風でもあるかのように、聖堂を満たしていく。

 かつて『神童』とまで呼ばれた歌声はその輝きを取り戻すどころか更なる高みへと昇っていた。


 二階席の立ち見の観衆も神官も奏者も、その瞬間にはもう「結果」を忘れていた。

 ただ音に身を委ね、共に響くという一点だけを目指して――。


 エーリの声が、パイプオルガンの波の上に静かに乗る。

 古代マニール語の響きは、聖堂の石壁に反射し、透明な水面のように広がっていく。


 

 「Sarenna… luthar avel,

  mirael an torra,

  forenna il auralis…」


 

 柔らかくも張りのある高音が、次第に天井のヴォールトへ吸い上げられていく。

 その先の鐘楼へ流れるように。

 古代マニール語の意味を知る者は少ない。だが、その声が祈りであり、誓いであることは誰にでもわかった。


 マリナ院長のオルガンが厚みを増し、弦が揺れ、管が輝きを加える。

 エーリは両手を胸の前で重ね、さらに歌い上げた。


 

 「…Alera mina,

  doras eul,

  auris… gratia…」


 

 最後の音が空間に溶けた瞬間、聖堂全体が一つの生き物のように呼吸した。

 奏者たちの視線が交錯し、誰もが次の一小節に全てを注ぎ込もうとしていた。


音の奔流はさらに加速し、最高潮へと突き進む。

 弦が全力で駆け抜け、管が空を切り裂き、打が大地を揺らし、オルガンがすべてを包み込む。

 この世界の、この国の、すべての想いがそこにはあった。。


 ユリシウスの腕が大きく円を描き――そして、ふっと止まった。

 『アウラ・グラティア』を指揮し終えたその姿はまるで祈りをささげる神官のように胸の前で手を組んでいた。


 演奏が終わる。

 

  断ち切られた音の残響が、まるで目に見える霞となって聖堂に漂っているかのようだった。

 その霞に包まれるようにして――曲を聴いたすべての人の脳裏に、ひとつの光景が広がっていく。


 果てしなく続く緑の大地。

 黄金色の麦畑が風に揺れ、川面には朝の光がきらめく。

 遠くには山並みがやわらかく連なり、その裾野に小さな村々が寄り添うように点在していた。


 そこには争いの影はなく、人々は笑い、子どもたちは駆け回っている。

 豊かで、平和で、温かい――そんな大地の景色。


 神の強い神託なのか誰もがそれを見て、同時に感じ取った。


 「ああ、これが……」


 言葉にならないまま、胸の奥が静かに満たされていく。


その大地の景色は、誰の中でも鮮やかに揺らめき続けていた。

 まるで自分がそこに立ち、風を頬に受けているかのように――。


 やがて、その光景の空の彼方から、澄み切った音が降ってきた。


 ――カァアン……カァアン


 深く、遠くまで届く鐘の響き。

 ひとつ、またひとつ。

 光景の中の村々にも、現実の聖堂にも、同じ音が重なって広がっていく。


 誰かが息を呑み、誰かが祈るように目を閉じた。

 その瞬間、人々は悟った。


 この鐘は、ただの音ではない。

 安寧を求めるすべての民のために――確かに鳴っている。


 鐘はなおも鳴り続けた。

 ひとつひとつの響きが、重なり、溶け合い、まるでこの国全土を包み込む祝福の言葉のように広がっていく。


 山を越え、森を抜け、川沿いの集落や城下の市場まで、その音は確かに届いた。

 家々の窓が開き、人々が耳を澄ませる。

 子どもたちは笑い声を上げ、商人たちは手を止め、老いた者たちは静かに涙をぬぐった。


 その音は、豊かな大地と平和な日々を約束するように、遠く遠くまで響き渡っていく。

 誰もが心の奥で感じた――これは、終わりではなく始まりなのだ、と。


 鐘は最後のひと響きを残し、静かに遠のいていった。

 聖堂の中も外も、しばし言葉を失ったままの沈黙に包まれる。

 誰もが目を潤ませ、隣の者と視線を交わし、ただ頷き合った。

 涙は止めようとしても止まらなかった。


 その時――聖堂の扉が勢いよく開く。

 斥候の鎧が燭光を反射し、荒い息を整えながら叫んだ。


「水門が……水門が開きました!今、フォニアにて現地の兵から確かに報告が上がりました」


 その声は、壁や天井に反響しながら、聖堂の隅々まで届いた。

 驚きと歓声とすすり泣きが一斉に沸き起こる。


 「水門が開いた」――その言葉が意味するものを理解するまで、ほんの一瞬の間があった。

 次の瞬間、聖堂のあちこちから歓声が沸き起こる。


 椅子を立ち上がって互いの肩を抱き合う奏者、泣き笑いでハンカチを握りしめる者、楽器を抱えたまま膝をつく者。

 マリナ院長は深く目を閉じ、胸の前で三神線を引きり、小さく祈りの言葉をつぶやいた。


 エーリは舞台上からミヤビを見つめ、涙で揺れた笑顔を向ける。

 ミヤビは言葉を返せず、ただ小さく頷き返した。


 その場にいた誰もが知っていた。

 これは自分たちだけの勝利ではない――この国すべての人々の勝利だと。


 歓声と涙の渦の中で、アルトはふいに顔を伏せた。

肩が大きく震え、堪えていたものが一気に溢れ出す。


 「……アネモネ……」


 かすれた声が、演奏を終えた静かな舞台に落ちる。

 長い年月、胸の奥底で重しのように沈んでいた悔しさと悲しみが、温かい涙となって頬を伝った。


 ミヤビがそっと近づき、何も言わずにアルトの肩に手を置いた。

 その手は温かく、確かな重みがあった。


 アルトは顔を上げられず、ただ嗚咽混じりに頷く。

 その涙は悲嘆ではなく、無念を晴らした安堵と、共に成し遂げた仲間への感謝に満ちていた。


 長年閉ざされ、苔むしていた水門は、まるで長い眠りから覚めた巨人のように、ゆっくりと軋みを上げながら動いていた。


 ごう、と低い響きが川面を伝い、押し寄せる水がきらめきながら流れ込む。

 堰き止められていた上流の水は穏やかに落ち、下流の運河へと新しい流れを作り出していく。

 かつて流れていたとされる乾ききった水路へ、少しずつ穏やかに命を吹き返すように。


 集まった人々は、その光景に息を呑んだ。

 僧侶は両手を合わせ、農夫は帽子を胸に抱き、子どもたちは歓声を上げる。

 老いた水門守が涙を拭いながら、ぽつりと呟いた。


 「……ああ、生き返ったんだ」


 水は絶えることなく流れ続け、その光は陽を受けて輝いていた。

 人々の歓声と笑い声が川沿いに満ち、遠く聖堂の鐘楼にもその響きが届く。


 ――聖堂。


 水門の報告を聞き終えた王グスタフは、ゆっくりと立ち上がった。

 集まった奏者や関係者を見渡し、深く頷く。


 「この鐘は、民のために鳴るこの響きは、国の新しい礎となろう。

  音の聖騎士よ、諸君の音が、大地を潤し、民を救ったのだ」


 その言葉に、誰もが胸を張り、互いを讃え合う笑顔を見せた。

 エーリは涙で濡れた頬を拭い、マリナ院長は再び静かに三神線を引いた。

 ミヤビは深く息を吸い込み、まだ胸の奥に残る鐘の余韻を味わっていた。


 外では、新しい流れが街を満たしている。

 その音は、まるで国中がひとつの大河となったかのように――

 絶えることなく続いていた。



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次回「ヴィンクルム」 水門は生き返り、マニールに平穏が訪れた。奇跡をおこした食堂のアフターストーリー。ガルが小さな姉妹を連れて来店。

異世界トラットリア「ヴィンクルム」初めの物語はここに完結

24日(金)21:00更新 

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