第11話 神々
窓辺をうっすらと染める朝の光に、小鳥のさえずりが重なる。
王都の高台に建つ屋敷の一室。石造りの天井には繊細な装飾が施され、床には肌触りのよい毛足の長い絨毯が敷かれていた。
ミヤビは、ふかふかの枕に頬を押しつけたまま、しばらく目を開けずにいた。
どうやら、昨夜の夜会の緊張と興奮が、まだ体の奥に残っているらしい。
「……うーん、いいベッドだ……」
そのまま二度寝しようとした時、隣室からカチャリと食器の音が聞こえてきた。
「もう起きてるのか、アルトさん……はや……」
ぐいと体を起こすと、目に飛び込んできたのは、窓辺の椅子に座るエーリの後ろ姿だった。
彼女はもういつもの服に着替えて、足を揺らしながら外をじっと見ている。
「……眠れなかった?」
問いかけると、エーリはゆっくりと振り向き、こくんと小さくうなずいた。
「……夢、見たの」
「へぇ。どんな?」
「声だけの夢。女の人の……でも誰だかわかんない。名前も言ってなかったけど、なんか……お姉ちゃんみたいな声だった。すごく優しくて……でも、あたしに言ったの」
エーリは小さく息をのんで──
「『出会えたのね、もうすぐよ』って」
ミヤビは返す言葉を探しながらも、思わず黙り込んだ。
そこに、タイミングを計ったように扉のノック音が響いた。
「失礼いたします。王宮よりの使いでございます」
控えめな声。アルトの応対する気配が聞こえる。
「ご用件を」
「宰相、ユリシウス=アリスベルト様よりの伝令です。本日午前、政庁内音楽局の執務室にて──ミヤビ=リアン様、アルト=クローヴェル様、エーリ=ルーフェンス様をお招きしたいとのこと。馬車をご用意しております」
呼ばれたフルネームに、エーリが一瞬きゅっと肩をすくめた。
「……えっと、僕たち、全員?」
ミヤビの問いに、使者は静かにうなずいた。
「はい。全員で、とのことです」
⸻
王都の朝の通りは、少し早起きな人々で賑わい始めていた。
白装束の神官たちが祭礼の準備に奔走し、幟が張られた中央広場には神殿の紋章が並ぶ。
その喧騒のなかを、黒塗りの馬車が静かに走る。
その中で、ミヤビは緊張と眠気の間を揺れながら座っていた。
向かい側の席では、エーリがぼんやりと車窓の外を見つめ、隣のアルトはすでに何かを察しているかのように目を閉じていた。
「ねえ、アルトさん。あの夢のこと……」
「啓示かもしれませんね」
「え?」
「女神の──あるいは、何らかの高位存在の意志。歌と神殿が絡む時、そういうことが起きても不思議ではない」
「……それ、信じてるの?」
「現実的に言えば、王宮が我々全員を呼ぶ方がよほど不可解です」
ミヤビは笑っていいのか困った顔で目をそらし、エーリは少しだけ苦笑した。
中央政庁──王都の中心にそびえる巨大な政務庁舎は、まるで神殿のような荘厳さを持っていた。
広い中庭を抜けて、衛兵に案内されたのは、政庁内・宮廷楽局の最上階。
──ユリシウスの執務室である。
政庁内の音楽局──その最上階にある重厚な扉の前。
案内してきた高官風の使者が、恭しく一礼する。
「宰相ユリシウス=アリスベルト様、お連れいたしました」
「入りたまえ」
扉が静かに開き、金と青の模様が刻まれた執務室の内部が姿を現す。
分厚い木製の机と、本棚に囲まれた空間。窓から差し込む朝の光が、机上の書簡と硯をやわらかく照らしていた。
そこにいたのは、昨夜と変わらぬ穏やかな微笑みをたたえた男だった。
あの日、料理に涙し、ヴァイオリンを披露し、金貨を三枚も支払ってくれたあの男。
──まさか国の宰相だったなんて。
ミヤビの背筋がわずかに伸びる。
「久しぶりだね、店主──いや、ミヤビ君」
「エーリ嬢もようこそ。朝早くからすまないね」
椅子から立ち上がったユリシウスは、長い外套の裾を静かに揺らしながら、優雅な所作で二人を迎えた。
「昨夜の料理、実に見事だった。君たちを呼びたくなったのは……まあ、当然の流れかな」
ミヤビは反射的に頭を下げた。
「い、いえっ……あの、アリスベルト様……」
言いながら、まだどこか現実味がなかった。
「ユリシウスで結構」
あの静かに語りかけてきた声の持ち主が、政治と芸術、両方の頂点に立つ存在だったなんて。
アルトが一歩前に出て、慣れた調子で言う。
「本日はどのようなご用件で?」
ユリシウスはゆっくりとうなずき、机の上の文書を数枚めくった。
「実は、神殿から依頼が来ていてね。今月末、三柱の神を祀る“大祭”が行われるのは知っているだろう?」
「はい。町のあちこちでも準備が始まっていました」と、ミヤビが返す。
「その祭で、王家主催の“奉納の宴”が開かれる。……そこで振る舞う料理を、特別に用意してほしいと要請があった」
「えっ……ぼくたちにですか?」
「そうだ。もっとも──正式な依頼主は国ではない。三柱の神、特に“大地の神”ガルシアを祀る神殿の筆頭神官から、君の名前を聞かされた」
ミヤビは目をぱちくりさせた。
「え? ぼくの名前が、神官さんの口から?」
ユリシウスは微笑みながら、言葉を継ぐ。
「曰く、『かつての“伝承献立”に近い味が、王都の外れで蘇った』と神託があったとかなかったとか。……君の料理は、どうやら神々の記憶をくすぐるようでね」
「そ、それって……」
「気にするな。まだ“気のせい”の段階さ。ただ、彼らの要望は本気だ。献立案を作ってもらえるかな、ミヤビ君?」
ミヤビは少し迷ったが、すぐに真っ直ぐうなずいた。
「はい。できる限り、がんばります」
⸻
そのやり取りの間、エーリはずっと黙って立っていた。
だが、そのとき──
「……あの」
小さな声で、彼女が口を開いた。
「さっきから……なにか、変な音が聞こえます」
「音……?」ミヤビが振り向く。
エーリは、部屋の奥にあるアーチ窓のほうを見ていた。
その向こうに、王都の尖塔がいくつも並ぶ中で──一つ、異様な“音”を発している塔があった。
──カリオン(鐘塔)。
だがそれは、通常なら使われていないはずの古い鐘楼だった。
「まさか……彼女に、聞こえているのか……?」
小さく呟くエーリを見て、ユリシウスの目がわずかに細まる。
「……少し待ちたまえ。これから君たちを神殿に招待しよう」
立ち上がったユリシウスは、軽く笑みを浮かべる。
「なに、せっかくの王宮だ。観光のつもりで行ってくるといい。今、案内をしてくれる神官を手配しよう」
そう言って彼は執務机の呼び鈴を鳴らした。
「……それでは、案内いたします」
ユリシウスの執務室を辞した三人は、すぐに神殿付きの使者に引き渡された。
使者は年若い巫女風の女性で、足音を忍ばせるようにしながら廊下を進んでいく。
建物を出た瞬間、朝の光の中で風がひらりと衣を揺らした。
振り返ると、政庁の塔が静かに彼らを見下ろしていた。
「ご足労いただき恐縮ですが……大祭の準備により、神殿内での通行は制限されております。どうか、私のあとに続いてくださいませ」
「は、はいっ」
エーリがやや緊張した様子で返事をし、ミヤビは静かにその横に並んだ。
アルトは一歩下がってついてくる。何も言わないが、その歩調は周囲の警戒に合わせているようにも見える。
⸻
王都の中心に位置する、白亜の石造りの建物。
それが──中央大聖堂。
三柱の神を祀るこの地は、トリニア教最大の聖地であり、王国における精神的・象徴的な中心でもある。
広場を囲むように配置された参道と庭園、そこを彩る青と白の布旗。
空に浮かぶ雲すら、静かにその場の神聖さに溶け込んでいるようだった。
「……すごい……」
ミヤビが思わずつぶやく。
「この石、どこから持ってきたんだろ……あ、見て、あの模様……全部彫刻だよ、しかも手彫り……!」
「うるさいです、オーナー」
アルトがぼそりと耳打ちした。
「こういう場所では、むやみに声を上げない方が……」
「ご、ごめん……」
神殿の巨大な扉が、ゆっくりと開く。
その先に広がるのは、まるで別世界だった。
⸻
天井の高い大聖堂の中は、ステンドグラスの光がまるで絵画のように床を彩っていた。
中央には三体の神像──音楽の神アウラ、大地の神ガルシア、水の神ミリニア──が並び、それぞれに祭壇が設けられている。
その三柱の像を見た瞬間、エーリがぴたりと足を止めた。
「……あ……」
「エーリ?」
「……この場所、知ってる……」
エーリの声はかすれていた。
だがそれは、記憶の断片というより、“音”に導かれるかのような反応だった。
──トン……。
誰も打っていないのに、神像の奥で、小さな鐘の音が響いた。
ミヤビはそれが何だったのか確かめようと前へ出たが、
その時、神殿の奥から、一人の男が現れた。
⸻
「お待ちしておりました。わたくしが、ガルシア神殿の筆頭神官──レマルです」
静かに頭を下げるその男は、年配ながら背筋の伸びた堂々たる人物だった。
手には白木の杖を携え、装束には金の刺繍が走る。
「……あなたが、“例の料理人”ですね」
「え……あ、はい。ヴィンクルムのミヤビです」
ミヤビがたじろぎながら頭を下げると、レマル神官は目を細めた。
「ふむ……神の舌が選びし者は、思ったより若い。──あなたの料理には、何かが宿っているとか」
「……“神の舌”?」
「これは大祭の準備の話ではなくなりそうだな」
レマル神官はそう呟くと、手をひと振りした。
「こちらへ。三柱の神像を背にした、儀式の間へお通しします」
中央大聖堂の奥、普段は閉ざされているという重い石扉が、鈍い音を立てて開いた。
「こちらが、“儀式の間”です」
レマル神官が、静かに手を差し伸べた。
ミヤビたちがその先へ踏み入れると──
空気が、まるで別の場所のように変わった。
そこは、円形の空間だった。
天井は高く、開口部から差し込む自然光が、床に描かれた巨大な魔法陣をゆっくりと照らしている。
壁際には、三つの神像が鎮座していた。
左手には──楽器を抱え、風になびく髪を持つ女神。音楽の神・アウラ。
正面には──腕を組み、大地を踏みしめる壮年の神。大地の神・ガルシア。
右手には──静かに水瓶を掲げる女神。水の神・ミリニア。
三神の視線が交わる中央の円、その中心へと、ミヤビたちは立たされた。
レマル神官が、神像の前で深く頭を垂れる。
「──汝ら、三神の教えを知るか」
静寂の中、その声だけがはっきりと響いた。
ミヤビは少し戸惑いながらも、隣で背筋を伸ばすエーリを見て、こくりと頷いた。
「……調和、創造、そして循環。三柱がそろって、世界の均衡が保たれる……そう聞きました」
「うむ」
レマルはゆっくりと振り返ると、厳かに続けた。
「調和なき言葉は争いを生み、創造なき手は飢えを招き、循環なき水は命を腐らせる。
それゆえ三柱は分かたれず、互いを支えあう。音楽、糧、恵み──それらは同じ“ひとつの祈り”」
「……ひとつの、祈り……」
「この場に君たちを招いたのは、偶然ではない」
レマルが、ミヤビとエーリに順に視線を送る。
「──歌は音の祈り、料理は命の祈り。昨夜の歌はアウラ神に触れたのか、
かの神託と昨晩のそなたの料理が偶然なのか、
今度は大地神ガルシアが今年の大祭で再び“宴”を求めておられる。そして、調和と循環がそれに呼応しようとしている」
「え……それって……」
「君たちは、神に“試されている”のだよ」
その言葉と同時に、神像の間を吹き抜けた風が、空間を震わせた。
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次回「神への献立」 さがしものは何ですか。
16日(金)21:00更新
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