定食屋フユキ

日戸 暁

第1話 ゴマサバ定食


40歳の独身男性会社員である昭嶋あきじま深春みはるは、


このところ、ある一軒の店が気になっている。


その店は職場の最寄り駅の裏通り沿いにあり、


深春が使っている公営駐輪場からちょうど店の表が見える。


深春が定時で帰れる19時頃はまだ開店前なので、夜遅くからやっているらしい。


つまり、今日のように残業で疲れ切った日には営業していて、あの店の灯りについ心惹かれてしまう。




道の向こうから、派手な格好の女性がやって来て、店に入っていく。さっきもサラリーマン風の男性が一人で訪れていた。


「客入り、すげぇな」


少し眺めている間に、合わせて3人出てきて4人入っていったと思う。


それに、おそらく店の専用駐車場なのだろう車2台分ほどのスペースには、いつ見てもタクシーが停まっている。


「……タクシーの運ちゃんの贔屓の店は旨いっていう都市伝説、あるよな」


春の健康診断で、色々と数値が黒に近いグレーゾーンになった深春は、6月半ばから頑張って自転車で通勤している。


だがぽつぽつと雨も降ってきた今晩は、自転車を置いて電車で帰ろうか迷いつつ、駐輪場へ来たところだ。ちなみに本格的に梅雨入りした今、自転車はここに、既に3泊している。


「今日も車停まってら……あ、またタクシー来た。よほど手頃でうまい店なのか」


せっかく金曜日だし、今日ぐらいは軽く飲んで帰ろうか。


健康も自転車もこの際 脇において、深春は店に近づいた。


深緑色の暖簾に、白抜き文字でフユキと書いてある。磨りガラスの引き戸に、


掠れきった印刷文字で【21時ー翌9時】の営業時間の案内と


【 SORRY, IN JAPANESE ONLY.】(日本語しか話せません)と、中学英語レベルの直訳の注意書きが貼ってある。


この辺、結構多国籍パブあるもんな。色んな国の客来るんかな。


などと思いつつ、深春は暖簾を潜り、戸を開けた。


入るなり、店内に満ちる味噌汁と青魚や肉の香ばしい匂いに深春の胃がぎゅううと切なく動く。


カウンター席は満員で、皆、わしわしと茶碗を掻き込み、ばくばくと箸を忙しく動かしている。


「いらっしゃい、……おや、初顔さんだ」


土方どかたの兄あんちゃんみたいに、手拭いで頭を覆った男性が、カウンター内から深春を見た。


「そっちの席どうぞ」


菜箸でひょいと2名がけのテーブル席を指す。


「いらっしゃい、お仕事お疲れ様。今日は魚が焼き鯖定食、肉がレバニラ炒め」


男性はお冷やとおしぼりとメニュー表を持ってきて深春の前にとんとんと置くと、厨房に戻っていく。


深春はそんな彼の後ろ姿を見つめた。




お疲れ様、なんて、退勤時の社交辞令以外で言われることはない。


いや、これだってただの客への挨拶なんだろうけれど、妙に胸がくすぐったい。


労われたみたいで、なんだか嬉しくなる。


「えー。なっつん、アタシ、レバー嫌い。鯖はアレルギーだもん、無理ー」


と、カウンターに座る例の派手めな女性が文句を言えば


「じゃあ、一昨日おととい来な」

なんて店主は言いつつ

「しょーがないね、ミズキさんにはいつもの裏メニュー作ろうか」

と肩を竦め、小さな鍋を火にかけた。チチチッとコンロが音を立てる。


やがて出汁のいい匂いがしてきた頃

「ひこちゃん、お代、くまちゃんとこ置いとくよー」

と言って、ワイシャツ姿の中年男性が一人帰って行った。レジ横のメニュー黒板の傍らに、確かに一体の小さなくまのぬいぐるみが座っている。

「ありがとございまーっす、また連絡くださいね」

店主も厨房から首だけ巡らせてお客を見送る。

そうして、

「はい、ミズキさん、親子丼。これ一杯1万円っすよ」


なんて言って出してやっている。


……なっつんとか、ひこちゃんとか。あだ名で店主を呼ぶなんて、常連さんなんだろうな。少し羨ましいな、行きつけの店があるって。


深春はメニューを睨みつつ、店内のやり取りを聞くともなしに聞いて思った。


渡されたメニュー表には、

①本日の肉定食

②本日の魚定食

③焼き鳥(もも、ねぎ、皮)

④だし巻き卵

としか書かれていない。


ドリンクも緑茶、日本酒2種とハイボール、ビール、ノンアルコールビールに限られている。




「で、おにーさん、決まった?」

わざわざカウンターから出て、店主は深春の元へくる。

醤油と味噌と出汁のいい匂いのする、自分よりずっと若く見える男性に、深春は少しどぎまぎした。

「えっと……」

最近食べてない魚にするか、ガッツリと精のつきそうなレバニラ炒めにするか。

深春はずっと悩んでいる。


仕事なら決めるべきところでは即断即決もできるのに。

自分の食べたいものが、分からない。


「鯖もレバーも苦手ですか?こっちの単品の、焼鳥とだし巻き卵とで、米と味噌汁付けて定食にしてもいいですよ?それとも親子丼作りましょうか?」


店主がスラスラと言う後ろで、


「なつくん、ハイボール追加と、だし巻き卵もちょーだい」と注文が飛ぶ。


さらに新規客が入ってきて

「お、今日はレバニラっすか。なつひこくん、俺、肉定食とノンアルビール!」

と座るなり叫んだ。


「んじゃ、決まったら呼んでくださいね」


店主は深春に言って、レジ横のクマのぬいぐるみの下の千円札を回収しつつ、再び厨房へ行ってしまう。


一人で切り盛りして忙しそうだ。


たった2つの定食も決めきれず、深春は所在なげに店内を見回した。


厨房脇の壁に貼ってあるプレートに


「笛木 夏彦」と名前が書かれている。それが彼の名前か。


笛木、ふえき さんか、……あれ?この店、フユキだよな?


表の暖簾、フユキって書いてあった気がしたけどな。

“エ”だったのが少し消えちまって、“ユ”に見えたのか?


とりとめもなく考える。


あぁ、それよりも早く定食を決めねば。


肉が食べたいが、レバニラは油炒めだし、安い中華食堂みたいにギトギトのクタクタな奴だったらやめておきたい。


魚は……健康を考えれば、こういう時こそ食べるべきか。


心がずっと揺れて決まらない。


一瞬、いいな、と何かに興味を唆られることもある。


これはダメという要素を元に選択肢を減らすこともできる。


でも、いざ決めようと思うと、じゃあ本当にそれが欲しいかよく分からなくなってしまう。


自分の体面。年齢。社会的立場。相手の望み。


何かに沿うことはできるのに。




自転車通勤が三日坊主になっている今、食事に気をつけようと、せめて肉の量を減らすところから深春は挑んでいる。でも食事を減らしすぎた分、つい間食が増えていて、既に失敗の気があるが。




深春は一つ咳払いをして、お冷やを飲んだ。




よし、今客が頼んでいるレバニラ定食の全体の量を参考にしよう。


多すぎなければ肉、でも油がくどそうだったら魚にしよう。




「なつひこくん、今日の小鉢何?」


レバニラ炒めを頼んだ男性客が、自分でピッチャーから水を注ぎながら聞く。


「切り干し大根の酸っぱいやつか、ひじきと枝豆の炊いたん」


しゅわあああ、と溶き卵を卵焼き器に流し入れながら店主のなつひこが答える。


2種類から選べるのか。良いな。


なんて深春がほくほくしていると


「えー、ポテサラは?」


「あのねぇ、今、切り干し大根かひじきって言ったよね……いょっと」


卵焼きを巻く傍らで、レバニラ炒めのフライパンも振っている。


酒と調味液が入り、レバニラの独特な甘辛い匂いが店内を満たす。


「はい、だし巻き」


薄黄色の分厚い卵焼きをひょいとカウンター越しに客に渡し、中ジョッキにガラガラッと氷を満たし、ドボっとウィスキーを入れ、炭酸水を一気に注ぐ。


豪快なハイボールだ。


「じゃあ切り干し大根で」


「はいよ」


じゃっじゃっとフライパンを急いで煽って、出来上がった炒め物を皿にもり、


「あ、飯、どっち?麦?」


でかい炊飯器の前で客を振り返る。


「俺?麦一択っしょ」


「ん、……あいよ、おまたせ。レバニラ炒め、切り干し小鉢」


……出来上がった定食の盆を盗み見て、深春は驚いた。


茶碗、小鉢、メインの皿。


そしてあの小丼こどんぶりは何だ。


「お、今日の味噌汁は、玉ねぎとキャベツ、じゃがに若布か」


あれが味噌汁。


よくある小さな蓋付き椀に浮き身が一つ二つの薄い汁などではなく、具だくさんの一杯らしい。


「……テーブルのお兄さーん、何にする?決まりました?」


店主が肉定食を客に渡しつつ、深春に聞く。


カウンターの客たちがちらっと深春を見て


「あれ、そっちに人いるの珍しーね」


とか言っているのが聞こえる。


「そ、うちは初めてのお客さま」


なんて言って、三たびこちらへ来てくれた。


「なんか、悩んでます?」


訊ねられて、深春は答えに詰まる。


ぱっと見で、肉料理の油のくどさなんて分からず。


でも量は胃にちょうど良さそうで。


でも鯖の大きさも気になってきた。ちっちゃ過ぎたらどうしよう。


でも魚の切り身の大きさって聞いていいのか?


もうこうなったら、お店の人の推す方にしよう。


「あ、……えっと、おすすめとかありますか?」


思い切って訊ねる深春に向こうで常連達が笑う。


「ここは日替わり定食の店だぜ、おすすめとか訊かんで、肉か魚かパッと決めてガッと食うの」


ハイボールをごくごく飲んで客が言う。


だが夏彦は


「まぁ、敢えていうなら、今日は焼き鯖がおすすめ。レバニラ炒めはいつでも出せるけど、今日は旬のゴマ鯖、入ったから。嫌でなければぜひ食べてって」


にかっと嬉しそうな顔をする。


「じゃ、じゃあ、その、ゴマサバ?ってので。あと……小鉢とか米って選べるんですか」


「米は、もち麦の入った飯か雑穀米。小鉢は今日はひじきと枝豆の炊いたのか、切り干し大根と人参と油揚げを煮て膾みたいに酢で味付けしたやつ」


と真面目に説明して、


「でも小鉢はね、私の気まぐれなんで選べない日もあります」


なんて言う。


「だから今日はおにーさん、はじめましてだけど、超ラッキーだよ」


いたずらっぽく笑ってみせた。




厨房へ、いそいそと入っていく夏彦に


「なっつん、ゴマサバってなに?ごまあえ?」


なんてミズキが聞いている。


「いや、胡麻まぶして焼いた鯖じゃないっすよ。……鯖の種類。初夏から秋にかけてが旬」


「へー。ま、あたしは食べないけどね。てかお魚はやっぱ寿司が好きー!」


なんて言いながら、ミズキは帰っていった。


それを待っていたかのように、他の客が入ってくる。


「夏彦さん、ご無沙汰!カウンター空いてる、やったー!」


「あれ、五十嵐さん、お久しぶりです」


常連はカウンター席に座りたがり、テーブル席は一見さんのもの。


そんな暗黙のこだわりが窺える。


夏彦は常連さんの注文に応じつつ、深春の鯖を焼いている。




独り暮らしで、自炊もろくにできない深春は、目の前で丁寧に調えられた料理が時々無性に恋しくなる。


人が料理する手つきを眺めつつ、食卓について無邪気に飯を待つ時間。


……実家だと、座ってないで箸ぐらい出せ、飯ぐらいよそえ、少しは手伝え!って怒られたのも含めて、今はただただ懐かしい。




「今日、鯖かぁ……。俺、鯖の臭い嫌なんだよね。うーん。じゃあ、焼き鳥とだし巻きに米味噌汁付けて」


五十嵐とかいう常連客がそう注文する。




さっきの、今日のおすすめを聞かれた夏彦の嬉しそうな顔を思うと、少し切ない気がする深春である。




せっかくこだわって仕入れたゴマ鯖。


もっと売り込めばいいのに。




「おまたせ、焼き鯖定食と雑穀ごはん、小鉢は切り干しね」


「おぉ……」


小さな切り身ではなく、半身まるまる出てくるとは。


こんがり焼けた皮目は、ところどころぷくっと膨らんで、美味しそうにしゅうしゅう鳴っている。


生姜と大根おろしも醤油皿に添えられ、さっぱりと頂く趣向らしい。


「いただきます」


深春は、まず具だくさんの味噌汁を一口すすった。


温かい出汁と味噌の風味が鼻をくすぐり、優しい味が胃の腑に染み渡る。


半身を丸々焼いた鯖に、箸を入れる。


ほろっと崩れる身を、おずおずと口に運ぶ。


焼き鯖、そもそも魚ってこんなに美味かったっけ。


コンビニ弁当に入っている一口サイズの切り身にばかり慣れた舌が、鯖の脂の旨さに驚いている。


煮付けの濃い味とも違う、焼いてさっぱりしているのに脂も程よく乗って。


「旨いなぁ……」


思わず顔が緩む。




去年他界した母も、今思えば、料理だけはなかなか上手い人だった。


思春期の頃は、母の健康志向の料理の繊細さがむしろ薄味で物足りなく思えて、味のはっきりしたジャンクフードをつい求めてしまったが。




深春がゆっくりと飯を噛み締め、鯖を味わっているうちに、カウンターは幾度か人が入れ替わる。


「へぇ?……今日は俺も魚にしよっかな」


なんて注文が聞こえたときには、深春まで嬉しかった。


「いつもお肉なのに!中津元さん、マジっすか!」


夏彦の声が弾んでいる。


「ははは、レバーあんまり好きじゃなくて……」


と申し訳なさげな中津元に、


なんだぁ、消去法だったぁ、と残念そうに言いつつも


「今日の鯖はね、とびきり良いのが入ったんですよ、ちょうど脂の乗り始め、旬のピカピカ」


と夏彦はニコニコしている。




美味い飯。


常連客の賑やかさ。


夏彦の懐っこい笑顔。




なんとなく、まだまだここに居たいと思ってしまう。


食べ終えても帰り難くて、お冷やをちびりちびりと飲んで深春は過ごした。




客が捌けたタイミングで、深春は流石にそろそろ帰るか、と名残惜しく席を立つ。


夏彦もレジに出てきて


「ぴったり千円、ちょうだいします」


「あ、あの。鯖、美味しかったです」


深春が言うと、夏彦の目が輝いた。


すっかり相好を崩して、


「ほんと!?口にあって良かったぁ。じゃあさ、秋になったら、真鯖の煮付けも食べに来て」


なんて言う。


「え、次は秋まで来ちゃだめか?」


思わず深春はそう返して、


「あぁ、いや、……はい。食べに来ます」


と言い直した。


いきなり俺は何を口走っているんだ。


深春が照れて俯くと、夏彦は帳場に腕を組んで姿勢を低くして、深春の顔をわざわざ見上げた。


「……なぁに、おにーさん、またすぐ来てくれるんです?」


にまっと笑んで見つめてくる夏彦に深春はどきどきした。


「あ、……明日って、メニューなんですか」


ほとんど無意識に聞いている自分に深春は驚く。


この店に興味を惹かれて実際に踏み入っただけでも深春にとっては大冒険だったのに、もう、再び来る気になっていた。




「え、明日も来るの?それはすぐすぎるっしょ」


夏彦は笑ってはぐらかしつつ


「またのお越し、お待ちしてますよ。おにーさん」


深春にひらっと手を振って店の戸口まで見送ってくれたのであった。






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