レリアに割り当てられた七葉分が完成したのは、翌日の「日没後の祈り」の鐘が鳴る直前のことだった。

「本当に終わったのかよ」

 ロジェが作業を続けながらも驚きの声を上げる。

「ちょっと、速すぎねぇか。挿絵除いても二十六ページだぞ」

「一度原書を見てしまえば、もう見返す必要はないんだ。書写速度が速くなるのは当然のことだろう」

 シルヴァンはそう言うと、提出された羊皮紙を静かにめくった。

「すごいよ、レリアちゃん。始めたばっかりなのに、もう十分戦力になってるじゃないか。ねえ、シルヴァン」

「口ではなく手を動かせ、エリク。ティティヴィラスの完成まで、まだ作業は残っているはずだ」

「大丈夫、あと数ページだよ。製本は明日でもいいんでしょ?」

「校正の時間があるんだ。なるべく早めに終わらせてくれ」

「はいはい」

 エリクが答えるのと同時に、鐘の音が響く。それが終わるのを待たずにシルヴァンは告げた。

「明日から奉納書の書写に入ってもらう。これでジョアキムが挿画に集中できる」

 ちらりとジョアキムを振り返ると、目だけをこちらに向けて小さく微笑んでくれた。助かるよ、と言わんばかりの表情に、うれしさと同時に不安を感じた。

 奉納書の書写は、間違いが許されない。サイズも最大級の二つ折り判で、行数も増える。文体もティティヴィラスよりさらに古い文語体のため、文法や一部の単語の綴りが現在と違う箇所も多い。

 私にできるでしょうか――と言いかけてレリアは口をつぐんだ。自信を持てと言われたばかりだ。できるかどうか、ではない。やるかやらないか、だ。

「おい、それ署名入れたのか?」

 ロジェが口を挟む。するとシルヴァンが改めて机の上の羊皮紙を見下ろした。

「いや、まだだ。これから言おうと思っていた」

「署名……とは、なんですか?」

「筆名のようなものだ。写字生の自己顕示が始まりではあるが、誰がどこを担当したのか明確にする意味でも、ここでは奨励している。本来は外部から依頼されたものには入れないんだが、サー・ヴィレムにはそうするように言われているのだ」

「ちなみにロジェは『賤しき者』、僕は『罪深き者』だよ」

 そう言ったエリクを見て、レリアは首をかしげる。

「賤しき者に、罪深き者……? どうしてそんなにひく――いえ、変わった名前なんです?」

「卑屈じゃねえ」

 レリアの言いかけた言葉を拾いつつ、ロジェが振り向いた。

「謙遜ってやつだ。書写は崇高な作業だが、むやみに誇るのは見苦しい行為だからな」

 レリアはしばし呆気にとられた。ロジェにしては、なんだか「らしくない」言葉だ。口は悪くとも、やはり彼も修道士なのだ。

 そう思ったとき、くらりとめまいを感じた。

 食事に関しては、さすがに傷んだ食材が出ることはなくなった。しかしパンの中身がくりぬかれている、スープに具材が一切入っていないといった比較的軽いものから、ゴミや虫の混入といったものまで、嫌がらせは多岐にわたって続いていた。空腹はある程度続くとそれを感じなくなる。それをいいことに書写に没頭していたが、さすがに溜まった疲労はごまかせなくなりつつあった。

 再びルネに訴えるのが一番であるとわかってはいたが、最近は院長とともに行動をしていることが多く、なかなか話しかけることができないでいた。彼女の耳に入った途端大ごとになり、その結果さらに状況が悪くなることだってありえる。

 シルヴァンに話してみようか、と何度か考えた。しかしそれも得策とは思えなかった。女子修道院内の問題に修道士が介入したら、かえってこじれる可能性が高い。レリアの行動は彼の運命を左右するのだ。ロジェがシルヴァンを「宝」と言った意味は、ここ数日で身に染みて理解していた。彼はクロードから許可をもらい、夕食後も地下書庫にこもって書写や校正などの作業を消灯まで続けているらしかった。起きている時間のすべてを、写本と「新月館の発展」に捧げているのだ。

 発展の先に何を見据えているのか、レリアにはわからない。けれども彼は、自身の不用意な発言によって破門の恐れを抱えることになってしまった人間だ。猶予と可能性、何より役に立てるという喜びをくれた彼の未来を、ここで潰えさせたくはない。

 すると、シルヴァンの表情がちらりと動いた。

「どうした? 顔色がすぐれないようだが」

 そう言って、注意深く観察するような視線をレリアに向ける。

「いえ、大丈夫です。最近、眠りが浅いみたいで」

「眠りが?」

 シルヴァンが眉根を寄せる。

 そのとき、螺旋階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。ブラザー・クロードだ。

「邪魔するぞ、シルヴァン」

「どうしたんです。日没後の祈りは始まっているでしょう」

 シルヴァンが怪訝そうに言う。

「緊急事態だ。多少の遅れは許されるはずだ」

 クロードは重い口調で続けた。

「明日の午後、修道女たちがここを見学することになった」

「……は?」

 ジョアキムだった。クロードを振り返り、ぽかんと口を開けている。

「見……学?」

「正確には、ここと工房だな。マザー・クラリスからの急な申し入れだ。表向きの目的はレリアの従事する作業について理解を深めることだそうだが、実際は作業環境の視察といったところだろう」

「視察? 監視の間違いでは?」

 シルヴァンが首を傾げる。

「もちろん、当初は作業に支障があると言って断った。だが何をどう言っても折れないばかりか、巧みに躱されてしまってな。挙句の果てには、『写本室長はレリアに不適切な感情を抱いているのではないか』などととんでもないことを言い出す始末だ」

 ぎょっとしてシルヴァンに目を向ける。写本室長は鋭い目つきで副院長を見据えた。

「もちろん、否定なさったのでしょうね」

「当たり前だ。最終的には、ラファエル司教代理の名を出されて押し通された。あらかじめ相談をしたところ、許可を出すのみならず大いに奨励なさったらしい」

 だが、とクロードは手を止めて呆然としている写字生たちを見渡した。

「悪いことばかりではない。見学を受け入れる交換条件として、レリアの昼の祈りの免除を勝ち取った」

「ほんとですか?」

 九時の祈りと日没後の祈りに続いて、昼の祈りも免除になれば、一日の聖務日課の回数は半分になる。

 ところが、レリアとは裏腹にシルヴァンたちの顔は曇ったままだった。

「それは、長期的な目で見れば確かに大きな収穫です。しかし、マザー・クラリスのことだから何かよからぬことを企んでいるはず。目的は私の排除とレリアの奪還と考えていいでしょう。そうなれば、その交換条件は全く意味のないものになり果てます」

「……だからこうして、聖務日課を遅らせてまで相談に来たんだろうが」

「今からなんとか理由をつけて、断ることはできないでしょうか」

 エリクの言葉に、クロードは「だめだ」と首を振る。

「司教代理にまで話が行っている以上、断れば角が立つ。シルヴァンとレリアもどうなるかわからん」

「乗り切るしかねえってことか」

 ロジェが大きく息をつくと、ジョアキムがレリアを見た。

「修道女って……何人いるんだ?」

「二十人ほどです」

 その途端、ジョアキムは真っ青になって頭を抱えてしまった。

「レリアちゃん一人なら、なんとか慣れてきたところだったのにね。これじゃあ本格的にジョアキムが使い物にならなくなっちゃいますよ」

 エリクがクロードに言う。

「しかたがない。ジョアキムには地下書庫に移って作業をしてもらおう。見学先は写本室と工房だけということだから、問題ないだろう」

 ジョアキムが胸に手を当てて息をついた。どうやら安心したらしい。

「あの。先ほど、室長の排除と私の奪還、と言われましたけど。それはつまり……」

「私の破門を狙っているのだろう。身元引受人である私がここを出ていくことになれば、おまえの身柄は女子修道院の管理下に戻る」

「そんな!」

 破門、という言葉に身震いして続ける。

「わかりません。マザー・クラリスは、どうしてそこまでして私を取り戻したがるのでしょうか。異端の疑いは、まだ晴れていないのに」

「だからこそ、奉納役という大役を与えてレリアの聖性を確固たるものにしようとしたのだろう。マザー・クラリスの力とある程度の時間さえあれば、神判取りやめの嘆願に千を下らない署名を集めることなど造作もない。そうなれば異端騒ぎは有耶無耶になって収束する。その計画を円滑に進めるためにも、レリアは手元に置いておきたいはずだ」

「でも、そのためには室長の犠牲が必要になります。マザー・クラリスがそんなことを望むでしょうか。同じ修道院に所属して、ともに聖務に励む修道士ですよ」

 そう言ったレリアを、シルヴァンは目を細めて見つめた。

「裁判でも司教代理が言っていたが」

 ふう、と小さなため息を挟んで言う。

「おまえはやはり無知だな」

 クロードだけでなく、ロジェも若干呆れたような表情でレリアを見ていた。途端に、かあっと顔が熱くなる。

「しかたがないよ。レリアちゃんはまだここに来たばかりなんだから」

 エリクが言うと、クロードが後を継いだ。

「ここシャトロワは複合修道院とはいえ、一枚岩ではないのだ。前身が女子修道院であったこと、何よりマザー・クラリスの存在が、われわれ男子修道院の活動に常に影を落としている。シルヴァンが破門になってレリアが女子修道院に戻れば、われわれの発言力などもはや無に等しくなる」

「今シルヴァンがいなくなったら、奉納書の完成は絶望的だ。五百年って節目の大事な聖女祭でそんなヘマしたら、それこそマザー・クラリスの天下になる」

「彼女なら、労せずその失態の穴を埋められるだろうしな」

 ロジェの言葉にシルヴァンがうなずいた。

「つまり、室長が破門にならなければいいわけですよね」

 レリアがおずおずと言う。

「そして、室長が破門になるのは、私が異端であると発覚した場合、その他問題を起こした場合、でしたよね」

「ああ」

 シルヴァンが答える。

「それなら、大丈夫です。私は異端ではありませんから、問題を起こさなければいいんです。明日は、ずっと席に着いておとなしくしています」

「おとなしくったって、おまえ……あっちが何も考えてないと思うのかよ」

「見学をするからには、何かの問題を指摘するつもりのはずだよね」

 ロジェとエリクの言葉に、クロードが「それが」と声を重ねた。

「あちらは、案内役にレリアをご所望なのだ」

「……え」

「まあ、それが自然でしょうね。修道士と言葉など交わしたくないはずですから」

 シルヴァンが表情を変えずに言う。

「待ってください。私、写本室はともかく、工房の案内なんてできません」

「問題ない。身元引受人として私も同行する。かまいませんね、ブラザー・クロード」

「それはかまわないが……どうするつもりだ? 何か考えはあるのか?」

「むやみに対抗しようとするのはかえって逆効果です。ここはあちらの目論見を後押しするのが得策でしょう」

「というと?」

 疲れた顔のクロードに、シルヴァンはふっと不敵な笑みを浮かべた。

「レリアの聖性――マザー・クラリス曰く『女神から授かった力』を、修道女たちに披露するのですよ」

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