第一章 聖女の修道院
1
オーレリアの朝は、修道女たちのパンを焼くことから始まる。
シャトロワ女子修道院に入って、一か月。厨房係に任ぜられた彼女は、先輩修道女にまじって厨房内をせわしく動き回っていた。野菜を刻み、焼き上がったパンを切り分け、葡萄酒をピッチャーに注ぐ。
その間、彼女らは一言も会話をすることはなかった。「大沈黙」の最中だからだ。
夜九時の消灯から始まる大沈黙の時間は、「朝の祈り」まで続く。その間は一言も言葉を発してはならない決まりだった。オーレリアたち修練女の世話役を務めるルネ曰く、「沈黙を介して神々と対話する時間」とのことだ。
朝の祈りが終われば、すぐに朝食の時間だ。厨房係は他の係の者よりも早く起きて仕事を始めねばならない。
この「お祈り」――正しくは「聖務日課」――は、一日に六回行われる。「朝の祈り」、「九時の祈り」、昼食前の「昼の祈り」、「日没後の祈り」、「夕食後の祈り」、そして各自部屋に戻ってから行う「就寝前の祈り」だ。係ごとの労働は、この「お祈り」の合間に行われる。
厨房に、ひとりの背の高い修道女が入ってきた。規律係のルネだ。途端に、厨房内の空気がぴりりと引き締まる。
それが合図で、オーレリアたち厨房係の修道女は食堂を通って回廊に出た。
中庭をぐるりと囲む回廊の東南に、聖堂に通じる扉がある。居室から出てきた二十名ほどの修道女たちが、すでに青い列を作り始めていた。
シャトロワ修道院の女子修道服は、深い青のワンピースだ。そのほとんどが頭に白いベールを着けているが、オーレリアを含めて三名の修練女は、黒や茶色の髪を朝の空気に晒していた。二年の修練期間を経て女子修道院長に認められたものだけが晴れて修道女となり、白いベールを身につけることが許されるのだ。
最後尾には、修練女のローズとアイリスがいた。二人とも貴族階級の出であり、ここへは結婚前の修練教育のために入った。戦災孤児であり、養家の手に余る形でここに来たオーレリアとは身分も事情もまったく違う。少なくとも彼女たちには、帰る場所がある。
正しい順序で並んでいるかどうか確認をすると、ルネは規律係の証である金色のベルを鳴らした。
扉が開けられると、修道女たちの列がゆっくりと聖堂内に入っていく。夜明けの柔らかい光に照らされた祭壇は、オーレリアのような信心に欠けた者の目にも不思議と神々しく映った。
――修道院は、人生の墓場だからね。
聖堂に来るたびに、養母の言葉がぼんやりと意識をつつく。オーレリアがここに旅立つ前夜、安堵したように義姉たちに放った言葉だ。
「一度入れば、女としての幸せを手に入れることはできないよ。決まった時間に決まったことをする繰り返し」
「季節ごとに葉を茂らせる、木みたいなものなのかしら」
娘の言葉に、養母は「違うよ」と笑った。
「修道女は、花を咲かせることも、実を結ぶこともないからね」
「かわいそうね。でも、『病気』のあの子にはお似合いの場所だわ」
もう一人の義姉がそう言って低く笑った。オーレリアは嫌な記憶を振り払うように軽く首を左右に振った。
聖堂の祭壇には、金細工の箱が置かれている。奥には、三連祭壇画がある。中央パネルには、リーヴェ教の主神でもある女神、太陽神エラ。右パネルには、月の神である男神トトが描かれている。
オーレリアは左パネルを見ないようにしながら、祭壇の左右に設けられた聖歌隊席に並んだ。祭壇の前には、修道院長のクラリスが杖をついて立っている。そのすぐ隣に寄り添うように立っているのは副修道院長のドロテだ。
この二人が離れたところを見たことがないのは、院長が盲目だからだろう。八年前に目を針で突いてみずから光を奪い、女神の住まう天上により近づこうとしたクラリスのことを知らない聖職者は、ここトラド王国内にはいない。
養家のあった村の司祭に連れられて、初めてクラリスに会ったときは驚いた。少女のものかと聞き間違う、鈴のような声。ベールの端に見え隠れする、豊かな金髪。閉じられたまぶたの小さな隙間から時折見える、水色の瞳。修道院長というくらいだから皺の寄った老女を想像していたが、二十歳になったばかりだと言うルネとたいして変わらないように見えたものだ。
と、にわかに修道女たちの中に動きが起こった。
それは言葉にならない動揺だった。息や視線を介し、不審が波のように伝わっていく。
オーレリアも、すぐに気づいた。
――アリスがいない。
まさか、という思いと、やはり、という思いが同時に生まれた。
修道女アリス。昨年修練女から修道女になったばかりの、オーレリアより二つ年上の少女。
彼女と親しくなったのは、お使いで外に出た際に声をかけられたのがきっかけだった。薬草係である彼女は、薬草畑の手入れをしている最中だった。
「ねえ。ここの歌詞、これで合っていたかしら」
そういって、聖歌の一部を歌ってみせた。歌詞はリーヴェ教の正典「カノン」内の詩編の一部だ。修練女である自分になぜこんな質問を、と戸惑ったが、オーレリアは静かに彼女の間違いを正した。その後、同じことを何度か繰り返した後でアリスは言った。
「やっぱり。あなた、カノンを全部覚えてるんじゃない? 聖歌を歌うとき、板を見ていないもの」
しまった、とオーレリアは青ざめた。聖務日課で聖歌を歌う際、修練女は板に描かれた歌詞を見ることが許されている。実際オーレリアもそうしていたが、本当はまったくそんなものを見る必要はなかった。
意図しようがしまいが、一度見たものは細部まで完全に覚えてしまう記憶力。それがオーレリアの「病気」だった。聖歌の歌詞を見る必要がないのも、約八十万字と言われるカノンの全内容を記憶しているからだ。
天気や毎日の食事の献立はもちろん、人々の服装や交わした会話のすべてを、問われればすぐに答えられた。それを義姉は不気味がり、「普通じゃない」「病気の子」と揶揄したのだ。
村中に広まらなかったのはおそらく、養家が体面を気にしてのことだったのだろう。このことが知れれば、「来る者拒まず」と言われている修道院入りすら叶わなかったかもしれない。もうどこにも行き場のないオーレリアにとっては、この修道院が最後の居場所だった。ここを追い出されたら、よるべを持たないオーレリアが身銭を稼ぐ手段は非常に限られてくる。
「すみません。このことは、内緒にしていただけませんか」
おそるおそる告げたオーレリアに、アリスはすぐさまうなずいた。
「もちろん、そのつもりよ。私だけが知ってる秘密にしておいたほうが、うれしいもの。でも、そんなすてきな才能、私だったら自慢しちゃうかも」
「才能?」
「ええ。天から授けられた、すばらしい才能よ」
そう言って微笑んだアリスから、オーレリアはしばらく目を離すことができなかった。琥珀色をした大きな瞳に、瞬きのたびに空気を揺らしそうなまつげ。ひかえめな小さい鼻に、上品な桃色の唇。腰まで伸びた亜麻色の髪に、すらりとした長身。聖堂の祭壇画に描かれた女神を思わせる優美さだった。
それ以来、アリスはオーレリアの心の支えになった。四方を石壁に囲まれた、冷たい空間――「人生の墓場」。そんな場所でもアリスがいると思うだけで、孤独や不安がやわらいだ。
オーレリアだけでなく、他の修道女からもアリスは愛されていた。アリスのそばにいると、自然と気持ちが安らぎ、誰もが笑顔になるのだ。
そのアリスの姿が、どこにも見えない。
修道女たちの動揺をよそに、クラリスはいつもと変わらぬうっすらと貼り付けたような笑顔で始まりの言葉を述べた。
「われわれは女神エラを信じます。地上を天上にすべく、女神の教えに従います。女神の愛とともに、ここに集まり祈りを捧げる機会をお与えくださったことに感謝します」
左手が静かに上げられる。それを合図に、聖歌の斉唱が始まる。
オーレリアは、アリスの定位置である席に目をやった。やはり、いない。修道女の間に、不自然な空間が開いている。
視線移動の途中で、祭壇画の左パネルに目がいく。そこに描かれているのは、青い修道服に身を包む漆黒の髪の少女――聖女オーレリアの姿だ。
聖女オーレリア。奇しくもオーレリアと同じ名を持つ、シャトロワ修道院が祀る聖女。
初めてこの祭壇画を見たときは、虚を衝かれた。オーレリア自身の外見の特徴と一致する部分があったからだ。名前だけでなく、義姉たちに「カラスみたい」とからかわれた髪の色と、黄みを帯びた淡褐色の瞳。
「もしかして、名前のこと気にしてる?」
親しくなってから、アリスにそう聞かれたことがある。
「はい。みなさん、特に何も言いませんけど……やっぱり、比べられたりしてるんじゃないかなって、たまに気持ちが重くなるんです」
カノンに物語が記載され、祭壇画にまで描かれている少女。彼女を意識すると、何者でもない自分の小ささがより際立つように思えた。
「オーレリアなんて、ちょっと古風だけどよくある名前じゃない。ここトラドでは、あやかって同じ名前をつける親も少なくないわ」
それに、とアリスは薬草籠を持ち上げて言った。
「オーレリアって、『光輝く』っていう意味でしょ? あなたにすごく似合ってるじゃない」
(それを言うなら、アリスにこそ似合ってる名前なのに)
そう伝えられなかったことを、今になってとても心残りに思う。
歌声が止むと、係に修道女によるカノンの朗読が始まった。それが終わると、クラリスが静かに口を開いた。
「我らが姉妹(シスター)、アリスについてお話があります」
ざわり、と空気が動いた。祭壇の両脇に輝く燭台の火が、倒れるように揺らぐ。
「彼女は、天上の女神より新たな役割を与えられました。修道生活を終えて故郷に帰り、ここで学んだことを教会学校を通して広めたいのだと、昨晩直々に相談を受けました。私はそれを許可しました」
修道女たちの何人かが、顔を見合わせた。ベールの下で動く眉は、それぞれ何か言いたげだ。
「とても急なことですが、アリスの尊い選択と前途に、女神の祝福とご加護が授けられるよう、ともに祈りましょう」
その言葉を合図に、修道女たちは目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。オーレリアも、小さく飛び上がった心臓を隠すように、組んだ手を胸に押し当てた。
(アリスが、故郷に……?)
眉間に皺が寄るのを感じながら、オーレリアは祈りのかわりにアリスの面影で頭を満たした。三日前に最後に会話を交わしたときは、そんなことおくびにも出さなかったのに。
「われわれの女神、エラの名のもとに、お祈り申し上げます」
クラリスが祭壇を下り、朝の祈りは終わった。九時間近く続いた大沈黙も、これで終わりだ。修道女たちは何かを言いたげに視線を交わすが、クラリスやドロテ、そして目を光らせるルネの手前、目で気持ちを表すに留める。
最後尾のオーレリアが回廊に入ったのを見届けると、ルネがベルを鳴らし、素早く扉を閉めた。
これを合図に、祭壇を挟んで反対側の扉――男子修道院の回廊へとつながる扉が開き、今度は男子修道院側の「朝の祈り」が始まる。
シャトロワ修道院。ここは、聖堂を挟んで北に女子修道院、南に男子修道院を擁する、複合修道院である。
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