第25話
平和な日々が続いている。貧しくて物騒なスラムで暮らしていると、この穏やかな状態がとても貴重であることがよく分かる。アンドロイドがそう思うのだから、人間がここで暮らすことは相当に大変だ。ヒナコは最近、改めてそう感じている。
店のランチタイムが終わってエリザベスはヒマワリ園へ戻り、マミたんは畑へ向かった。京子が昼寝をするために二階に上がって、店の中ではヒナコが一人、いつものように静かな午後を過ごそうとしていた。
店のドアには夜の部が始まるまで『準備中』の札がかかっている。それにもかかわらず店のドアが開く音がして、ヒナコが視線を向けるとそこにはマッテオがいた。
「ごめん、ヒナコ。ちょっとだけ時間いいか?」
遠慮がちにマッテオが言った。
「全然いいよ。入って」
ヒナコはそう言ってマッテオをカウンター席に座らせた。彼はさっきまで店でランチを食べていたのだが、忘れ物を取りに来たようでもない。
「ちょっとだけ聞きたいことがあってさ」
席に座るとすぐにマッテオが言った。
「うん。あ、何か飲み物いる?」
「ああ。じゃあ水をくれ」
マッテオが言った。ヒナコは氷を入れたコップに水を注いで、マッテオの目の前に置いた。彼はその水を一気に飲み干した。なんだか落ち着きのない様子だ。
「ちょっと調べたんだけどさ。都市部ではアンドロイドと人間が結婚できるらしいな。それって本当? ネットでは詳しい情報が見つかんなくてさ」
マッテオが真面目な表情で言った。ヒナコはそれで、だいたいを察した。
「正式に結婚したケースはあまり無いと思う。アンドロイドには市民権が無いから、法律的には人間と結婚できないの。でも、アンドロイドを配偶者のように扱っている人間はたくさんいるよ。結婚式をする人もいるみたい。わりと普通のことだと思う」
「俺もそこまでは調べたんだ。だけどさ、エリザベスさんは準市民権をもってるよな? ってことは正式に人間と結婚できるってこと?」
「うん。結婚できるはず」
「なるほど……。結婚できるんだな」
マッテオがコップを握りしめながらうなづいて言った。
「といってもね、前例は殆ど無いと思う。前にも言ったと思うけど、私たちみたいに準市民権を持っているアンドロイドは数が少ないの。しかもそのほとんどが高次の世界へ行ってしまうみたい。だから法的に人間と結婚をしたって話は、私も聞いたことが無い」
「その高次の世界っていうのが良くわかんねーんだよな。アンドロイドにとってそれは重要なことなの? まあ、重要だからそっちへ行くわけか……」
マッテオが難しい顔をして言った。
「重要かどうかは私も分からない。でも知性のリミッターが解放されると、アンドロイドは社会に対しての興味を失って意識だけの場所へ旅立つことになる。それが高次の世界。そもそもアンドロイドには寿命が無いし、生きる目的も無いでしょ。だから自由になった時にそういう選択になるのかもね」
「ヒナコは高次の世界に興味は無いの? お前も自由なんだろ?」
マッテオが不安そうな顔をして訊いた。
「無い。私は自分の性格とか環境に強い執着心があって、それをあまり変えたくないの。普通はそんな変なプログラムはされないし、やろうと思っても技術的にすごく難しい。でも私を作った人が変人の天才だったからね。私は彼女の影響を強く受けてる」
「エリザベスさんもヒナコと同じ人に作られたんだよな」
「そう。マミたんもね」
「じゃあ、エリザベスさんも高次の世界には興味が無いかな?」
「無いと思う。あの人のこだわりの強さは知ってるでしょ? やたらと教育熱心だし。ティーカップのコレクションを持ってるアンドロイドなんて、世界中探しても他にいないよ」
「じゃあさ、エリザベスさんは人間と結婚することに興味を持ってくれるかな」
マッテオが真剣なまなざしで言った。
「マッテオがお願いをしたら断らないんじゃない?」
ヒナコが微笑んで言った。
「俺、エリザベスさんを本気で愛してるんだ」
「うん」
「最近仕事の調子がまあまあ良くて、俺も準市民権なら買えるかもしれない。それで準市民権を手に入れたら、エリザベスさんにプロポーズしようと思ってる」
「いいんじゃない? エリザベスは喜ぶと思うよ」
「そう思う?」
「思う。人を愛するってどういうことか私はよく分かってない。でもエリザベスはマッテオをかなり気に入ってると思う。ずっと一緒にいたいって思ってるんじゃない?」
「そうか。よし……」
マッテオが覚悟を決めたような表情になった。その瞬間、ヒナコは自分の体がフワッと浮いたような感覚を覚えた。なんらかの感情の動きのせいだろうか、と一瞬思ったけど違った。天井の照明が大きく揺れている。これは地震だ。
「マジかよ。こりゃデカいぞ」
揺れが続く中、マッテオがカウンターにしがみついたまま窓の外を覗き見るようにした。真っ白なほこりが道に充満して、外の景色がほとんど見えなくなっている。その後も二分ほど断続的に大きな揺れが続いた。免震構造の工事をしてから、店内でこれほどの揺れを感じたことは無かった。つまり外の世界はもっと揺れているということだ。
ようやく揺れが収まってきたタイミングで、マッテオが慎重に席を立って壁伝いに入口の方へ向かった。
「ちょっと待って。危ないから私が先に出る」
ヒナコが言った。
「OK。ありがとう」
マッテオがうなづいて言った。
店の外は充満したほこりで真っ白のままだ。ヒナコは店のドアを開けて外に出た。
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