第一章 洗い尽くすは、鉛の華①

 くしゅん、と大きなくしゃみを一つして、彩玉は目を見開いた。

「あっ」

 気づけばもとの巻紙に、黒い染みがじわりと広がっている。彩玉は慌てて筆を置くと、づくえから紙を持ち上げた。この経文は、皇帝陛下へ献上するための品。こうなってしまっては、また初めから書き直さなければならない。

 ため息をつけば、薄暗い中でも分かるほど吐息が白く染まった。文机に手をつき立ち上がると、麻衣の下にひやりとした風が立つ。彩玉は小さく身震いし、白い大袖の前合わせをきよせた。

 ついでに小さくなっていた灯火に油を注ぎ足すと、色あせた室内が浮かび上がる。何年も打ち捨てられていた小殿の一室は、いまだ隅にがらくたが積み上げられたまま。かろうじて人の暮らしを示すのは、書きものの道具が載った小さな文机と、寝台の上の薄っぺらな布団ぐらいだ。

 彩玉がこの廃屋のような殿舎に一人ぼっちで閉じ込められている原因は、全く心当たりのない皇帝の毒殺未遂というものだった。

 きっかけとなる事件から、もう三か月近くが経った。一昨日には新年を祝う爆竹の音が聞こえたが、それでも大扉は固く閉ざされたままだ。

 彩玉は沈みゆく気分をなんとか奮い立たせると、文机に新しい紙を広げた。

 全四十巻あるはんきようのうち、まだ十四巻め。

 ふぅ、と小さく息を吐き、かじかむ指先で毛筆に墨を含ませる。

(諸行無常 しようめつぽう しようめつめつ じやくめつらく……)

「……私にはまだ『じやくめつをば楽しみと為す』なんて、無理よ」

 思わず声に出して嘆くと、彩玉は深いため息をついた。

 ──難癖をつけられるぐらいなら、差入れなんて余計なことするんじゃなかった。今すぐこうしゆうに帰りたい……。

 鼻の奥がツンとして、彩玉は思わず、罪人の白い大袖で顔を覆った。

 彩玉が生まれた亢州は南東の沿岸部にあり、広大な国土の中でも特に温暖な地域だ。だから内陸部にある都・らくけいの冬の冷え込みは、骨身にみるものがある。

 そんな片田舎の、しかもたかがけんの娘ごときが、このだいしんていこくの皇后になってしまった。それが、そもそもの間違いだったのだろう。

 ──これは、長らく好きなことばかりしていた罰なのだろうか。

 一度決めたことだから、泣きごとは言いたくないと思っていた。だが今は、無性に暖かな郷里が恋しかった。


    *


 ──あれは、つい二年ほど前のことだった。

 冬は物寂しいなどと、一体誰が初めに詠んだのだろう。どこまでも高いそうてんの下、色とりどりの染布が、さとのあちらこちらで鮮やかに風に舞っていた。

 養蚕発祥の地と言われるここ亢州には、大小さまざまなせんぼう──つまり染物の工房がある。中でもせんせんと呼ばれる老人が営む染坊で、彩玉は屋外にある広い染場に立っていた。

 ひたし染めに使う大きなせんこう(染色槽)は、褐色のだくすいで満ちている。これは染料をよく浸したで、今から友人の婚礼しように使う布地を染めるのだ。

 彩玉は長い竿さおを器用にあやつり、濁水の中から大きな布をざぶりと引き上げる。そして傍らのおけからしやくを手に取って、染缸の中へばいすいという黒い梅酢を注いだ。

 再び長い竿を取り、褐色の染水をよく混ぜる。するとわずかに赤みを帯びた褐色に、また先ほどの布をたっぷりとけた。

 再び、布を取り出して、また酢を入れてかき混ぜる。すると染水は、暗い紅色へと姿を変えた。そこへ三たび布を入れて少し待ち、やがて布が染水と全く同じ色に見えたなら、また引き上げどきが来る。

 さらに同じ手順を重ねてゆくと、とうとう染水は鮮やかにえた紅色となった。

 そこまで至った染水は、あるときふっと色が薄くなる。これが、色味が生地に吸い尽くされた合図だ。最後に染缸へ酢をたっぷり注いでしばし布地を寝かせると、彩玉は額に浮かぶ玉の汗をぬぐった。

 せわしなく働く職人たちの向こう、空高く干された染布たちが寒風に揺れている。だがこの冷たい風こそが、生地にべにばなの色をより美しくとどめてくれるのだ。

 汗がすっかり乾いたところで、彩玉は染缸から布地を引きあげた。川べりでたっぷりの冷水にさらして、じゃぶじゃぶとよく洗う。染水をしっかりすすいだら、あとはしわにならないように干すだけだ。

 すすぎを終えた布地は、退たいこうと呼ばれるごく薄い紅色に染まっている。この頃は衣に好む娘も増えた色だが、まだまだ、これからだ。

 淡く穏やかな退紅、明るく可愛らしいとうこう、鮮やかに冴えたしんこう──どれも、紅花を用いて染める色。だがこきいろは濃き染水を使えばよいかといえば、そうではない。重ねる手間を惜しんで染料を増やしても、日焼けや水洗、摩擦で色落ちし易くなる。だから何度も何度も丁寧に、薄い色を重ねてゆくのだ。

 彩玉は近くにいた職人に頼んで向かい合い、互いに竿さお上げ棒を手に取った。布地をぴんと広げた竹竿を上げ、高い干し台へと差し掛ける。

 冬空に、また一つ新しい花が咲いた。

 友人の、まだ少しだけあどけなさの残る笑顔を思い描いて、彩玉は自然と笑みを浮かべた。ひと言で『こう』といっても、様々な色がある。彼女に似合う『紅』となるまで、あと七度ほどかかるだろうか。

「うん、いい調子!」

「いい調子、ではないっ」

 そのとき。背後から聞こえてきたのは、よく聞きなれた声だった。驚いて振り向くと、立派なたいを白い官服に包んだ武官が、すぐ後ろで腕組みをして立っている。

「あら、お父様」

「またお前は、職人たちの邪魔ばかりしおって」

 くちひげを揺らしてため息をつく父親に、彩玉はほんのりと紅に染まった両手を広げて肩をすくめた。

「邪魔なんかしてないわ。お手伝いよ」

「まったく、染物ばかりして縁談をのらりくらりとかわしておったせいで、大変なことになったのだぞ」

「え、大変って?」

 彩玉が元から丸い目をさらに丸くして問うと、父は困ったように顔をしかめた。

「白氏の本家が、お前を養女にしたいと言っておる。そして皇后として後宮入りせよ、と」

 信じがたい言葉が耳をうち、彩玉は石のように動きを止めた。父の話はあまりにも現実離れしていて、思考が追いつかなかったのだ。

 この大晨帝国の皇后は、『そう』『しゆ』『はく』『げん』のたいに連なる娘から、せいしんの巡りで決められる。現皇帝も同様に、十年前の立太子に合わせて行われたせんぼくにて『白氏から皇后を立てるべし』と託宣が下された。

「でも本家には、あのてんせつ様がいらっしゃるのに……」

 彩玉は、ついこの間に一族を集めてお披露目されたばかりの、美しい少女の姿を思い浮かべた。彩玉より五つも下とは思えない所作は洗練されており、大人びたぼうと相まって思わず見とれてしまったことを思い出す。白氏当主ご自慢の末娘である天雪は、まさに理想の皇后候補のはずだった。

「それがな、急なうんえき(熱病)ではかなくも……」

 父は口髭の上に乗った鼻を赤く染め、ぐすりと一つ鳴らした。

「そんな……」

 あのお披露目の席で天雪が自らしゆうしたのだというだんせんの美しさを褒めると、少女は年相応にはにかんで、『あの方に贈りものをしたくて、たくさん練習したのです』と、団扇の向こうでうれしそうに笑っていた。別れ際に皇后さくりつの祝いに亢州でもりすぐりの絹糸を染めて贈ると伝えたら、『お約束ですよ』と、目を輝かせていた。

 かの瘟疫にかかった者は徐々に息が浅くなり、ついには止まってしまうのだという。きっと、まだたくさんやりたいことがあっただろうに──少女の無念を想い、彩玉はぎゅっと下唇をみしめた。

「掌中のたまもかくやと大事にしておられたのに、当主のお気持ちを想うと……」

 そう言って父は懐からしゆきんを取り出すと、だぐずぐずと鳴り続ける鼻を押さえて肩を落とした。


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