第一章 洗い尽くすは、鉛の華①
くしゅん、と大きなくしゃみを一つして、彩玉は目を見開いた。
「あっ」
気づけば
ため息をつけば、薄暗い中でも分かるほど吐息が白く染まった。文机に手をつき立ち上がると、麻衣の下にひやりとした風が立つ。彩玉は小さく身震いし、白い大袖の前合わせを
ついでに小さくなっていた灯火に油を注ぎ足すと、色あせた室内が浮かび上がる。何年も打ち捨てられていた小殿の一室は、
彩玉がこの廃屋のような殿舎に一人ぼっちで閉じ込められている原因は、全く心当たりのない皇帝の毒殺未遂というものだった。
きっかけとなる事件から、もう三か月近くが経った。一昨日には新年を祝う爆竹の音が聞こえたが、それでも大扉は固く閉ざされたままだ。
彩玉は沈みゆく気分をなんとか奮い立たせると、文机に新しい紙を広げた。
全四十巻ある
ふぅ、と小さく息を吐き、かじかむ指先で毛筆に墨を含ませる。
(諸行無常
「……私にはまだ『
思わず声に出して嘆くと、彩玉は深いため息をついた。
──難癖をつけられるぐらいなら、差入れなんて余計なことするんじゃなかった。今すぐ
鼻の奥がツンとして、彩玉は思わず、罪人の白い大袖で顔を覆った。
彩玉が生まれた亢州は南東の沿岸部にあり、広大な国土の中でも特に温暖な地域だ。だから内陸部にある都・
そんな片田舎の、しかもたかが
──これは、長らく好きなことばかりしていた罰なのだろうか。
一度決めたことだから、泣きごとは言いたくないと思っていた。だが今は、無性に暖かな郷里が恋しかった。
*
──あれは、つい二年ほど前のことだった。
冬は物寂しいなどと、一体誰が初めに詠んだのだろう。どこまでも高い
養蚕発祥の地と言われるここ亢州には、大小さまざまな
彩玉は長い
再び長い竿を取り、褐色の染水をよく混ぜる。すると
再び、布を取り出して、また酢を入れてかき混ぜる。すると染水は、暗い紅色へと姿を変えた。そこへ三たび布を入れて少し待ち、やがて布が染水と全く同じ色に見えたなら、また引き上げどきが来る。
さらに同じ手順を重ねてゆくと、とうとう染水は鮮やかに
そこまで至った染水は、あるときふっと色が薄くなる。これが、色味が生地に吸い尽くされた合図だ。最後に染缸へ酢をたっぷり注いでしばし布地を寝かせると、彩玉は額に浮かぶ玉の汗をぬぐった。
せわしなく働く職人たちの向こう、空高く干された染布たちが寒風に揺れている。だがこの冷たい風こそが、生地に
汗がすっかり乾いたところで、彩玉は染缸から布地を引きあげた。川べりでたっぷりの冷水に
すすぎを終えた布地は、
淡く穏やかな退紅、明るく可愛らしい
彩玉は近くにいた職人に頼んで向かい合い、互いに
冬空に、また一つ新しい花が咲いた。
友人の、まだ少しだけあどけなさの残る笑顔を思い描いて、彩玉は自然と笑みを浮かべた。ひと言で『
「うん、いい調子!」
「いい調子、ではないっ」
そのとき。背後から聞こえてきたのは、よく聞きなれた声だった。驚いて振り向くと、立派な
「あら、お父様」
「またお前は、職人たちの邪魔ばかりしおって」
「邪魔なんかしてないわ。お手伝いよ」
「まったく、染物ばかりして縁談をのらりくらりと
「え、大変って?」
彩玉が元から丸い目をさらに丸くして問うと、父は困ったように顔をしかめた。
「白氏の本家が、お前を養女にしたいと言っておる。そして皇后として後宮入りせよ、と」
信じがたい言葉が耳をうち、彩玉は石のように動きを止めた。父の話はあまりにも現実離れしていて、思考が追いつかなかったのだ。
この大晨帝国の皇后は、『
「でも本家には、あの
彩玉は、ついこの間に一族を集めてお披露目されたばかりの、美しい少女の姿を思い浮かべた。彩玉より五つも下とは思えない所作は洗練されており、大人びた
「それがな、急な
父は口髭の上に乗った鼻を赤く染め、ぐすりと一つ鳴らした。
「そんな……」
あのお披露目の席で天雪が自ら
かの瘟疫に
「掌中の
そう言って父は懐から
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