第8話 叩いていい空気

 午後の陽射しが陰り始めていた。


 朝霞ミーナはキャップを目深に被り、大きめのサングラスで顔を隠していた。口元には、けばけばしいピンクのグロスが光っている。


 テーブルに置かれたアイスのカフェラテには手をつけていない。グラスが結露し、コースターがぐずぐずになっている。


 ミーナが指定したカフェの半個室にフリー記者の関野がやって来た。


 アイドルの炎上ネタをゴシップ紙に売り込むことを生業にしているクズだが、バカとはさみは何とやらだ。目障りなメンバーを消すにはちょうどいい。


「どうも。今日はどんなお話を?」


 鼻にかかったような声で、あくまでおっとりと言った。


グリッター☆グリッターうちのセンターのオトコ関係について」


「へえ」


 関野が無精ひげを撫でさすった。


 ミーナはスマートフォンで隠し撮りした場面を見せた。


 制服を着た中肉中背の男子高校生がスーパーで買い物かごを手に持ち、仲睦まじい様子で食材を買い込む佐原凜の姿が写っていた。


 二人はマンションのエントランスを抜け、エレベーターホールの方へ並んで歩いていく背中が隠し撮りされていた。 


「既婚者のプロデューサーあたりと不倫とかならまだしも高校生か。ニュースバリューはあまりないかもなあ」


 ちんけなフリー記者は、あまり興味を示さなかった。


「うちのグループ、恋愛禁止ですよ。なのに隠れて男を連れ込んでる。それだけじゃなくていっしょに住んでる。なんで、あの女だけ特別扱いなの。ありえなくない?」


「お宅のセンター様、今は叩いてはいけない空気だからなあ」


 朝霞ミーナがいきり立つが、フリー記者はさほどのスキャンダルとは見なしていないようだった。手元のカフェラテを投げつけてやりたい気分だったが、なんとか自重する。


「叩いてはいけない空気って、なんですかそれ」


「そのままの意味だよ。今はリークしても、なんの効果もないだろう」


「じゃあ、叩いていい空気になったら価値ありますか」


「まあ、そういう空気になればねえ」


 関野は勿体ぶったように頷いた。


「ちなみに、この彼氏は誰なの?」


「佐原景。双子の弟とか言ってたけど、ぜぇったい嘘。顔なんかぜんぜん似てない」


 関野は胡乱げに隠し撮り写真を眺めた。


「年齢は?」


「私らと同年齢タメ。同じ学校ガッコ。同じクラス。芸能活動なんか、ぜったいしてないのに芸能科」


「双子の弟ねえ。佐原凜はたしか母親がシングルマザーで、母一人子一人だったんじゃなかったっけか。どこかの取材でそう答えていた」


「グリグリに入って来たとき、兄弟はいないって言ってた。なのに、双子の弟? そんなの、噓にきまってるじゃん。ねえ、この子がどこの誰か、調べられないの」


「戸籍謄本をとれば調べはつくが、なかなかグレーだな」


「調べられるなら、さっさとやってよ。ぜったい双子なんかじゃないから」


 フリー記者は乗り気でないのか、わざとらしく肩を竦めた。


「怖いねえ。そこまでしてセンターを取りたいかい」


 ミーナの目は真っ黒に濁っていた。


「べつに。わたしはグループのためにならないズルが許せないだけ」

「そうかい。じゃあ、ひとまずデータをいただけますか」


 図々しく隠し撮り写真を要求されたが、タダで渡すはずがない。


「だめ。佐原景がどこの誰なのか、調べがついたら渡す」


 関野は降参したように両手を上げた。


「あー、はいはい。調べてみますよ。いちおうね」

「叩いていい空気になったら、うまく料理してくれる?」


 関野は胸ポケットから煙草を取り出したが、「ああ、ここ禁煙か」と言って舌打ちした。


「とにかく今は凄い勢いだからね。そういう空気になりそうもない」


 ミーナはマーブル模様のカフェラテをストローで荒っぽく掻き回した。


「だいじょうぶ。この世界はすぐに白が黒にひっくり返る。今まで持ち上げていた人はすぐ叩くようになる」


「お得意の予言かい。怖い、怖い」


「いいえ。ただのこの世の真理。グループのためにならない悪評が立つようなら、お休みしてもらったほうがいい」


 ミーナはカフェラテを半分ほど飲むと、紙ナプキンで念入りに手を拭った。

 手についた汚れがすべて落ちるまで、執拗に拭い続けた。

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