第5話 スキャンダルの種

 佐原凜のサイン会に参加した後、景は営業時間が終わるギリギリまで書店内をうろついていた。おかげで、すっかり帰宅時間が遅くなってしまった。


 マンションのロビーには、少し冷たすぎるくらいの空調が効いていた。


 街の喧騒から逃げるように、景はフードを深く被り、非接触キーをかざして、さっとエントランスのオートロックを通り抜けた。


 外での喧騒に比べ、ここは静かすぎるほどだ。無機質な床に靴音がひとつだけ響く。景がエレベーターのボタンを押そうとした瞬間、背後から硬質なヒールの音が近付いてきた。


「あれれぇ、ここってグリグリの運営が借り上げてるマンションだよぉ。基本、女子専用。男性は立ち入り禁止だった気がするんだけどなぁ」


 鼻にかかったような甘ったるい喋り方。振り返らなくても誰の声かわかる。


 アイドルグループ『グリッター☆グリッター』の初代センター、朝霞ミーナ。


 間延びした喋りとは裏腹に、その声には舌先で相手を刺すような鋭さがあった。

 エレベーターのドアが開いても、景は無言のまま立ち尽くしていた。


「もしかしてフードデリバリーの人かな。でも荷物はなさそうだねぇ」


 ミーナは腕を組み、さも困ったなあ、という顔をしながら景の顔を覗き込んだ。


 緩く巻いた髪から甘い香水の匂いが漂う。

 うっすら笑ってはいるが、その笑顔は、ようこそ地雷原へ、と書かれた標識のようだった。


 あまりに距離感が近いので、景は咄嗟に後退りした。


「うちのグループ、恋愛禁止なの。知ってるでしょう」


 朝霞ミーナにしつこく迫られるが、景はなんとも答えなかった。

 景はくるりと踵を返し、エレベーターホールから立ち去ろうとした。


「君、誰のファン? やっぱり凜ちゃん?」


 朝霞ミーナは言葉を切り、ゆっくりと瞬きする。景が手にしていた非接触キーを目敏く見つけると、ミーナは景の鼻先まで、ぐいっと迫ってきた。


「……あれれ? もしかして、ここに住んでるとか」


 答えを知りながら、わざとらしく惚けたふりをしているようだ。


「凜ちゃん、男を連れ込んでたかあ。だとしたら、運営に報告しないと」


 朝霞ミーナはにやにやと笑いながら、景の出方を窺っていた。


 とにかく、現センターの佐原凜を追い落とす口実があれば、なんでもいいのだろう。


 目障りな佐原凜さえ追い落とせば、あとは自分が主役に返り咲けるから。

 景はフードを深く被り、くぐもった声で言った。


「出版社の者です。ゲラを直接お届けにあがりました」

「それは嘘。凜ちゃんの担当編集者は女性でしょ」


 咄嗟についた景の嘘は即座に見抜かれた。


「どこの出版社? 社員証を見せて。じゃないと不法侵入で通報するけど」


 マンションの出口を塞ぐように立ちはだかられた。


 エレベーターに乗り込んで逃走しようにも、非接触キーをかざしても、登録された行き先階のボタンしか押すことが出来ない。つまり、どの階に降りたか、バレバレだ。


 佐原凜を追い落とすスキャンダルを探している競争相手ライバルの前で、迂闊なことはできない。景はエレベーターに乗り込むこともできず、朝霞ミーナを振り払って、マンションから脱走することもできなかった。


 しばらく、静かな睨み合いが続いた。

 ミーナはわずかに顎を持ち上げ、景の全身を値踏みするように眺めた。


「お届けものにしては手ぶらだね。あっ、まさか君が荷物ってオチ?」


 冗談めかして笑いながらも、目は真っ黒に濁っていた。

 こういう手合いは冗談に見せかけて、相手の心を揺さぶってくる。


 景のこめかみに血が逆流するような感覚が走った。

 今にも何かを言い返しそうになる自分をなんとか押しとどめた。

 この女に食いついた時点で負けになる。


「ミーナさん、どうしたんですか」


 景が振り返ると、エントランスに仁王立ちする佐原凜の姿があった。

 ミーナはちらりと景を見て、いかにもわざとらしい声で怖がってみせた。


「凜ちゃん、こわーい。心配しないで。男を連れ込んでたの、チクったりしないから」


「……男?」


 佐原凜は景の背中を押し、さっさとエレベーターホールに乗り込んだ。


「勘違いしないでくださいね。常木さんマネージャーにも運営にも同居の許可は取っています。これ、佐原景。です」

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