罪とバグ ~わたし、盗んでませんけど~
神原月人
第1話 バグった世界の片隅で
きょう、ママンが死んだ。
もしかすると、昨日かも知れないが。
アルベール・カミュ『異邦人』を丸々盗んだ書き出し。
なぜ、こんな小説が受けているのか。
ひとえに、それは現役のアイドルが書いたから。
現役アイドルが「僕」の一人称で綴った私小説。
大事なのは、表向きの作者だけ。
本当の作者が誰かなんて、誰も気にしない。
ここにいる皆、共犯だ。
芥川賞、直木賞、本屋大賞の三冠ノミネートされた『罪バグ』現象。
これが業界的なバグでないなら、いったい何がバグなのだろうか。
サイン会の列は、朝の通勤ラッシュと変わらない密度で続いていた。
アイドルグループ『グリッター☆グリッター』(通称グリグリ)の不動のセンターであり、出版業界を席巻する『罪とバグ』を著した天才女子高生作家でもある
それを冷めた目で眺めながら、
整理券を配ればいいものを、わざわざ並ばせるのは、出版業界をあげてのお祭りだからだろう。書店の外まで続く行列を見て、道を行き交う人々が「何の列?」と囁き合っている。
今を時めく女子校生アイドルから直接本を渡してもらえるだけでなく、サインの合間に握手もできて、ツーショットの写真も撮れるとあって、長蛇の列はどこまでも途切れることがなかった。まるで、五時間待ちのアトラクションみたいだ。
本家カミュの文庫本を読むでもなく眺めていると、ようやく順番が来た。
テーブルの向こう側、白いワンピースに身を包み、鉄壁の営業スマイルを浮かべる作家がペンを持ち、ひたすらサインを書き続けていた。
小柄な彼女は完璧に作られた透明感を纏っていた。
一瞬にして目を奪われる整った容姿。
前髪はゆるやかに巻かれ、毛先にだけアイドルらしい柔らかな茶色が差してある。
大きすぎない瞳は、いつもどこか笑っているように見えるが、光の反射の角度によっては、まるで誰のことも映していないようにも見える。肌は雪のように白く、ともすれば不健康にも映り、冷たいガラス細工のような危うさを思わせる。
佐原凜はいつまでも途切れない列に、嫌な顔ひとつ浮かべず、読者とちょっとした会話を交わしている。笑顔で握手にも応じ、至近距離でのツーショットにもノリノリだった。
けれど、景のサインの番となると、佐原凜の様子がわずかに変わった。
ふとした瞬間に形の良い口角がぴくりと下がり、何か未定義な表情になる。
店頭に渦巻き状に平積みされた一冊を買い求め、佐原凜の隣に立つ穏やかそうな女性編集者に手渡した。
「宛名、どうしますか」
佐原凜がどこか他人行儀に言った。
「……佐原。……
佐原凜は一瞬だけ目を細めて笑った。
「わあ、もしかして同じ名字ですか」
白々しいぐらいの愛想笑い。ただ同じ名字というだけで、わざとらしくはしゃぎながら、心持ちゆっくりとサインを書いている。
景の後ろにいる男性ファンたちが「やべえ。めっちゃ可愛い」と興奮気味に話している。
佐原凜・著『罪とバグ』。
もう何度読み返したか、わからない。暗唱できるぐらいには読み込んでいる。
「まるで自分のことを書いてくれているみたいで、どうして僕の気持ちがこんなにわかるんだろう。もしかして、僕が書いたのかな。そう勘違いするぐらい、素晴らしい小説でした」
たどたどしく感想を伝えると、佐原凜が満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
サインをしながらの上目遣いは、卑怯なほどの破壊力があった。
「写真、撮ります?」
「いや、恥ずかしいので」
景が遠慮しているのに、佐原凜が急に距離を詰めてきた。
「せっかくなので撮りましょうよ」
「え、あ……」
まるで恋人みたいに密着して撮られた写真の景は無様だった。表情は氷漬けされたように引き攣り、極上の笑みを浮かべる佐原凜との落差はいかんともしがたい。
今を時めくアイドルとその他大勢。
真実を写すから「写真」なのだが、そもそも真実とはなんなのだろうか。
こんなものは、ただの一幕を切り取っただけの肖像に過ぎない。
ただでさえ、人が大勢いるところは苦手だ。
小学校高学年から、中学が終わるまで、ほとんど自宅に引きこもっていた。
女子校生アイドル作家のサイン会に参列するのは、社会復帰の第一歩としてはいささかハードルが高過ぎたかもしれない。
「次の方、どうぞ」
編集者が急かすので、景は小さく会釈してから立ち去った。
佐原凜は本の見返しに、宛名に加えて、こう書き添えていた。
――わたし、盗んでませんけど
景は受け取った本を大事に胸に抱えながら、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「いいや。盗んだよ」
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