第一章:名を買う男
播磨の小藩に仕えていた武家、
城の陰にひっそりと屋敷を構え、格式を誇る中老の家柄の一族だったが、明治維新の動乱のなかで藩は廃され、家も所領も失った。
武士という存在が不要になったその時、一族は路頭に迷った。
それでも、初代・神崎原
生き延びるために、かつて蔑んでいた商売へと身を投じた。
大阪に移り、商いを始めたのは明治六年。
痩せた身体で天秤棒を担ぎ、粉を売り、油を売り、時に嘘をつき、時に頭を下げた。
徳右衛門には、恐れがあった。
世が一夜にして変わることへの恐れだ。
「昨日の忠義が、今日の逆賊」
その現実を骨身に染みて知ったからこそ、彼は風を読むことに執心した。
勝ち馬に乗る──それがこの新しい時代で生き残る唯一の道だった。
徳右衛門は、先を読むことこそが“経営”の本質だと悟っていた。
価値が変わる時代に、価値を変える側に回る。
それは忠義を捨てたのではなく、時代を読む“新しい忠義”だった。
やがて商いは軌道に乗り、徳右衛門は大阪でも知られる顔となった。
名士との交わりを得て、名家の娘を後妻に迎えた。
だが彼は、決して"商人"になったとは思っていなかった。
ただ、かつての屈辱を糧に“家”を再興しようとしていた。
そしてそれは、ただの家名ではない。商人の家ではなく、“名を担保に資金が動く”家。
神崎原という看板を、経済圏の中心に据えるという野心だった。
「名こそ人。だが名は、金で買える」
そう言っては、床の間の刀を撫でるのが常だった。
だが、その刀はもう錆びついていた。
抜かれることも、斬られることもない。
飾られるためだけに残された、亡霊のような存在だった。
二代目・
兄たちはすでにいなかった。
日清戦争に従軍し、若くして戦地に倒れた。
義隆だけが、徳右衛門と名家の後妻との間に生まれた子であり、その血を誇るように育てられた。
帝都に出て、東京帝大に進学した。
そのこと自体が、家の誇りであり、徳右衛門の悲願でもあった。
義隆は学生服に身を包みながらも、常に父の眼を感じていた。
「お前は神崎原の血を継ぐ男だ。忘れるな」
言葉ではなく、背中で、眼差しで、家の重みを背負わせる──それが徳右衛門という男だった。
だが、義隆は違っていた。
彼は血と同時に、この時代を生き抜く術を学んでいた。
帝都の空気。
政治家との繋がり。
情報と金の動き。
徳右衛門が望んだ“格式の復興”を、彼は別の形で叶えようとしていた。
血ではなく、情報と資金のネットワークで「家」を作り替える。
政治との連携、利権への先回り──彼にとって経営とは“接続する力”だった。
そして──
その名が、やがて“政商・神崎原”として、新聞に踊ることになるのだった。
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