第六章 そして妃は寵愛の冠を戴くー②

 太極殿での冊立の大礼を終え、璃華は中宮へと向かっていた。

 新たな主を迎えるために敷かれた紅の絨毯が、まるで夜明け前の空を裂くように、一直線に延びている。


 その両脇には百花を模した細工灯が灯り、諸国より献上された宝物の数々が荘厳に並ぶ。香を焚いた青磁の香炉が、かすかな煙をくゆらせていた。

 璃華は鳳冠を戴いたまま、静かにその道を進んでゆく。

 歩揺の玉飾りが頬をかすめ、歩を進めるたびに耳元でかすかに揺れた。

 すぐ背後には、阿李を筆頭とする女官たちが控え、さらにその後ろに宦官たちが続いている。


 阿李は、このたび皇后付きの尚宮しょうぐうを拝命した。

 葡萄紫の深衣に身を包み、金糸を織り込んだ帯を結んでいる。

 高く結い上げた髪には、銀の鳳頭簪がひとつ、慎ましやかに輝いていた。

 視線を伏せ、しずしずと璃華の背後を歩くその姿には、尚宮としての威厳が漂いながらも、璃華への揺るぎない忠誠と、変わらぬ温かな親しみがにじんでいた。


 中宮──今宵から璃華が暮らすこととなるその宮殿は、金と朱で彩られた高楼を擁し、入口には荘厳な扁額が掲げられていた。

 扉が静かに開かれ、璃華が寝殿へと足を踏み入れる。


 室内はすでに夜の支度が整えられており、天蓋からは金襴の紗の帳が垂れている。

 璃華が中へ進むと、阿李たち女官は静かに頭を垂れ、寝殿の外へと下がっていく。

 そこに残されたのは、璃華ひとり。

 これから、皇帝が訪れるのだ。


「……こ、ここが……私の、居場所……」


 呟いた声は、自分にすら届かぬほどかすかだった。

 だがその刹那、ふいに扉がそっと開く。

 姿を現したのは、黒と金の装束に身を包んだ黎煌だった。

 冠はすでに外され、冕服ではなく、柔らかな夜の衣に着替えている。


「お疲れだったな、璃華」


 その声は、玉座の上で響かせる厳かなものではなかった。

 ただ彼女の名を呼ぶ。それだけで胸が満ちるほどに、あたたかくやさしい声音だった。

 璃華は、思わず一歩だけ、彼のほうへと足を踏み出していた。


「璃華は、まだ着替えていなかったのか。……早く会いたくて、気が急いていたようだ。気が利かず、すまぬな」


 そう言いながら、黎煌はそっと璃華の鳳冠に手を伸ばし、自らの手で外す。

 重さから解放された頭がふっと軽くなり、璃華は皇后としてではなく、ひとりの女性として黎煌の前に立つ喜びに、胸を高鳴らせていた。


「れ、黎煌様も……お、お疲れでは……ございませんか?」


 久々にこうして言葉を交わせることが、ただ嬉しくて。

 璃華は目を輝かせながら、まっすぐに黎煌を見つめた。

 しかし、黎煌の表情がふいに曇る。璃華の声を聞いた瞬間、わずかに眉を寄せたのだ。


「その話し方……まだ疲れが残っているのか? 無理をさせてしまったかもしれないな」


 その一言で、璃華の顔から血の気が引く。

 これまでは、猫でいたときの影響かと流されていた。

 けれど、こうしてはっきりと指摘されてしまえば──自身の言葉の拙さが、容赦なく心に突き刺さる。


(……こんな話し方しかできない私が、皇后になってしまってよかったのだろうか。私は、黎煌様の隣に立つべき人間ではない……?)


 胸の前で手をぎゅっと握りしめ、怯えたように蒼白な表情を浮かべる璃華を見て、黎煌は心配そうに顔を寄せた。


「どうした? 体調でも優れぬのか」


 璃華は小さく首を振って否定する。けれど、言葉を出すのが怖かった。


(……黎煌様に伝えなければ。うまく話せなくなってしまったことを。でも、それを知ったら、嫌われてしまうのではないかしら。まともに話せぬ女など、皇后にすべきではなかったと、後悔なさるのでは……)


 話さねばならぬとわかっていながら、恐怖に喉がすくみ、体が小さく震える。

 がっかりされるのが、何より怖かった。

 黎煌が静かに言う。


「……やはり、今夜来るべきではなかったかもしれぬ。すまない」


 璃華からそっと視線を外し、彼は背を向けた。


(……帰ってしまう──!)


 扉に向かって歩みかけたその背に、璃華は渾身の勇気を振り絞り、衣の裾をぎゅっと掴んだ。

 黎煌が、ハッとしたように振り返る。


「……璃華?」


 黎煌が戸惑うように声をかけた瞬間、璃華は渾身の思いで言葉を吐き出した。


「わ、私の……話し方が……お、おかしいのは……湛州国で……し、虐げられた生活を送っていたせいです。こ、心を病み、は、話すことが……む、難しくなってしまったのです……」


 璃華は必死に声を絞り出した。

 その震える言葉に、黎煌の目が大きく見開かれる。


「……虐げられていた、だと?」


 低く唸るような声とともに、黎煌の眉間に深い皺が刻まれた。

 体の奥底から、怒りがじわじわと噴き上がってくる気配があった。

 璃華は、それが自分に対する失望だと思った。

 けれど、それでも逃げなかった。しっかりと黎煌の目を見つめ、切実に訴えかける。


「た、湛州国の……宮廷では……わ、私は……い、いらない公主でした。し、食事も満足に……あ、与えてもらえず……は、話しかければ……う、うるさいと叱られて……な、殴られることもあって……だから、話すことが……こ、怖くなってしまって……こんな……見苦しい、は、話し方に……」


 涙に滲む声で語る璃華に、黎煌は言葉を失った。


「なんてことだ……」


 その声はかすれ、胸の奥をかきむしられるような苦悶が滲んでいた。

 璃華は、黎煌の目が大きく揺れていることに気づく。

 まるで、自分の中の何かを責めているかのような、そんな悲しげな眼差しだった。


「入内……し、した時も……た、たくさんの結納金を、い、いただいていたのに……ま、まともな衣装も、じ、侍女もひとりしかつけてもらえず……す、すみませんでした。で、で、ですが……け、決して、れ、黎煌様のもとへ嫁ぐのが……い、嫌だったわけでは……ないのです」


 これだけは、どうしても伝えたかった。

 璃華は、黎煌の後宮に召し上げられたことを、心の底から嬉しく思っていたのだ。

 たとえそれが、人質としての入内であっても。

 相手が、冷徹皇帝と噂される人物であったとしても──それでも。


 黎煌が衝撃を受けていることは、ひしひしと伝わってきた。

 無理もない。皇后に冊立した妃が、ろくに言葉も話せない欠陥品だったのだから──きっと、そう思われているに違いない。


「……じゅ、入内した日の夜……こ、こんな風にしか、は、話せなくなった私を、れ、黎煌様が知ったら……き、きっと嫌われてしまうと……こ、怖くて震えてしまったのです。れ、黎煌様が……き、嫌いで震えていたわけでは……け、決して、ありません……」


 こんなにも弱く、惨めな自分を晒すのは、本当は嫌だった。

 けれど──誤解されたままでいるのは、それ以上に辛い。

 黎煌が想ってくれているのは、きっと、あの頃の私。

 天真爛漫で、健やかで、強い女の子。


 こんなふうになってしまった自分を知られたら、きっと幻滅されてしまう。……怖くてたまらなかった。

 それでも璃華は、涙を湛えた瞳のまま、勇気を振り絞って想いを伝える。


「れ、黎煌様の……き、妃になれたことが……う、嬉しかったのです。や、約束を……お、覚えていてくださったのだと……」


 その瞬間。

 黎煌は堪えきれぬように、璃華を強く抱きしめた。

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