第四章 交わした約束ー③

 


 急いで戻った璃華は、蒼穹台を一望できる関係者席の最上段に、ひっそりと腰を下ろした。

 遥か前方、祭壇に最も近い中央の席には、湛州国の王、そして近隣諸国から集った要人たちが並んでいる。

 もう会えないかもしれない――そう思っていた黎煌の姿は、意外にもすぐに見つかった。

 けれど、その席とのあまりの距離が、身分の違いを痛いほど突きつけてくる。


(……お父様もいる。今日はとてもご機嫌そう。でも、娘の私を探そうとはしないのね)


 公主の身でありながら、璃華の席は遠い。

 璃華からは彼らの姿が見えても、彼らの目に璃華が映ることはない。

 言葉にならない切なさが、胸の奥をぎゅっと締めつけた。

 そのとき、楽団の音が鳴り響き、祭祀の幕が上がった。


(いけない……ちゃんと集中しなきゃ!)


 今回は実力不足で舞台に立つことは叶わなかったが、璃華にも、十年後にはこの神聖な舞台で舞を奉じる役目が巡ってくる。

 その日のために、今はしっかり目に焼きつけて、学ばなければならない。

蒼穹台の中央。明霞が緋衣を翻し、天へと祈るように腕を掲げた。

 細くしなやかな指先が空をなぞり、白玉のごとき足取りで一歩、また一歩と舞うたび、周囲の空気が熱を帯びたようにゆらめいていく。

 仄かに紅を差した目元。濡れたような瞳は、遠く、何かを見つめるように静かで、透明だった。

 風に揺れる薄衣の下、なめらかな肢体が一輪の白蓮のように揺らぎ、妖艶さの中にも凛とした気品を漂わせていた。

 鼓の音に合わせ、明霞はゆるやかに旋を描く。


(綺麗……まるで人じゃないみたい)


 璃華は息を呑む。

 精霊が憑いたかのような、神に捧げる舞。蒼穹台に集った者たちは、ただ沈黙のまま、明霞の美に打たれていた。


 ――と、そのときだった。

 ゴゴゴ……と、蒼穹台が低く震え始めた。


「地震か⁉」


 祭壇に最も近い席で儀式を見守っていた湛州国の王が、声を上げて立ち上がる。

 楽団の奏でる音が止み、人々は不安げに周囲を見渡し始めた。


 揺れは次第に激しさを増し、金糸の垂れ幕が大きく揺れ、香炉が倒れて香の煙が宙を舞い、飾りが次々と落ちていく。

 女性たちの悲鳴が上がり、観客たちは我先にと出口へ押し寄せた。


「いけません! いま儀式を中断すれば、霊獣がお怒りになります!」


 明霞が逃げようとする楽団たちを制し、なおも舞を続けようとする。

 その姿には鬼気迫るものがあり、巫女としての責務を最後まで果たそうとする強い意志が感じられた。


(お母様……!)


 璃華も人波に呑まれかけながら、なんとか脇へと身を逸らし、その場に踏みとどまる。

 だが揺れはさらに強まり、ついには天井の一部が崩れ落ちてきた。

 粉塵が舞い上がり、逃げ惑う人々の顔が曇る。


「神がお怒りだ――っ!」


 誰かの叫び声が響いた。

 それを合図にしたかのように、場内は阿鼻叫喚の渦と化す。

 人々は出口へと殺到し、狭い通路に押し寄せた者たちが次々と倒れ、潰されていった。

 そんな混乱の中にあっても、明霞は舞い続けていた。

 祈りを捧げるようなその姿と、巫女としての使命を貫こうとする気迫に、璃華は胸を打たれ、その場から動くことができなかった。


 ――そして、またひときわ大きな揺れが蒼穹台を襲う。

 その瞬間、屋根の四隅に据えられていた霊獣の彫刻が、音もなく崩れ落ちた。璃華の目の前で、それは真っ直ぐに、明霞の頭上へと――


「お母様あああっ!」


 璃華の絶叫が、張り詰めた空気を切り裂いた。

 明霞は一瞬、驚いたように顔を上げる。

 だが次の瞬間、巨大な彫刻が容赦なくその身を押し潰した。


「いやあああああっ!」


 舞台の上に、真紅の血が広がっていく。

 霊獣の彫刻の下から伸びた、明霞の細い腕だけが、無惨にも外に突き出ていた。


「璃華! 逃げるぞ!」


 泣き崩れる璃華の肩を抱き起こしたのは、いつの間にか傍らに現れていた黎煌だった。


「嫌だ……行かない……お母様ああ……!」


 祭壇へ駆け寄ろうとする璃華を、黎煌が必死に押しとどめる。


「駄目だ、早く逃げなければ、ここも崩れる!」


 その言葉に、璃華はハッと我に返った。

 視線の先――出入り口の近くには、人の波に押し潰され、すでに動かない数人の姿があった。だが、多くの人々はなんとか外へと逃げ出せたようだった。


 巫女を失った祭壇では、香炉が突如として爆ぜ、濃厚な紫煙が立ちのぼって室内を包み込んだ。

 祭壇の中央にある神を祀る神牌しんぱいが、かすかに震えはじめる。

 バン、と乾いた音を立てて、神牌の表面がひと筋、ひび割れた。

 その亀裂から、白い光が漏れ出す。


 眩さに璃華が目を細めた次の瞬間、それは現れた。

 金と白の毛並みを纏い、たてがみは風に逆立ち、瞳は紅に染まっていた。

 しなやかな体躯、しずしずと音もなく歩む四肢。

 三角の耳がぴくりと動き、長い尾が空を切るようにしなった。

 それは、虦猫さんびょうのような顔を持つ霊獣、狻猊さんげいだった。

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