第三章 冷徹皇帝の本音が甘すぎますー①

 黎煌の腕にそっと抱き上げられた璃華は、猫の姿のまま、その揺れる歩みに身を委ねていた。

 後宮門を抜け、御花園ごかえんの脇を巡り、さらに奥深く、内廷へと続く回廊へ進む。


 漆塗りの柱が連なる長い廊下には、ところどころに燈籠とうろうが置かれていたが、その灯は控えめで、浮かび上がるのは陰影ばかりだった。

 やがて黎煌の足が止まる。目の前に現れたのは、朱と金を組み合わせた重厚な双開きの扉。その上には龍紋の彫刻があしらわれ、中央に金文字で記した扁額へんがくが掲げられている。

 璃華は、ここが皇帝の寝殿であることを悟った。


(ど、どうしましょう……猫とはいえ、寝殿に入るなんて、恐れ多すぎます!)


 身がすくむ思いに駆られるも、黎煌は璃華をしっかりと胸に抱いたまま、離そうとはしない。

 扉の前には、二人の宦官が静かに控えていた。言葉も交わさぬまま、片方がひとり、音もなく扉に手をかけ、重々しく押し開いた。


 扉の内側から、香木のやわらかな香りがふわりと漂い、あたたかな空気がそっと漏れ出してくる。

 天井は高く、朱塗りの梁には金箔の龍が巻きつき、四方の壁には絹地の壁掛けが優雅に垂れていた。


 殿の奥には、絹の御帳がかけられた寝台がひとつ。透かし彫りの施された淡い乳白色の帳は、風にふわりと揺れるたび、内側の様子をぼんやりと映し出している。

 寝台の手前には、黒漆に螺鈿細工があしらわれた文机が据えられ、上には筆と硯、数枚の奏状、そして印を押すための玉印が整然と置かれていた。

 一対の小さな灯籠が左右に灯り、夜でも筆を走らせることができるようになっている。

 隅には香炉と水盆、そして季節の花を挿した青磁の瓶が置かれ、空間にしっとりとした気配が漂っていた。


「政務の書類を持ってこい。今宵はここで仕事をする」


 黎煌は控えていた宦官に声をかける。宦官は深く頭を下げて部屋を出ていった。

 重々しい扉が音を立てて閉じられると、静寂が寝殿を包み込んだ。

 黎煌は文机の脇に置かれた椅子に腰を下ろし、大きく息を吐く。


「……璃華、どこに行った」


 そのつぶやきは、あまりにも切なくて――璃華の胸はきゅう、と締めつけられた。


(ここにいます、黎煌様)


 璃華は、言葉の代わりに鼻先をそっと黎煌の手に押しつける。


「お前と出会えて良かった。こうして抱きしめていれば、璃華を失った悲しみに押し潰されそうな心を、なんとか堪えられる」


 黎煌は、愛おしむような眼差しで、腕の中の猫を見つめる。

 冷徹と噂される男の口から漏れた、あまりにも弱々しい本音に、璃華は目を丸くした。


(わたしがいなくなって、ここまで動揺していたなんて……)


「そうだ、お前に名をつけてやらねばな。璃華のように可愛らしいお前には、特別な名が必要だ。……そう、小璃シャオリーがいいな。小さな宝石。まさに、お前にふさわしい」


 ――小璃。

 幼い頃、母がそう呼んでくれた名。まさか、黎煌の口からその名を聞く日が来ようとは思わなかった。

 それに、「璃華のように可愛らしい」だなんて……

 聞いているこちらが恥ずかしくなるほど甘い言葉。


(黎煌様……私のこと、そんなふうに思ってくださっていたの?)


 胸が高鳴って、もうどうにも止まらない。

 猫にならなければ、一生聞くことはなかったかもしれない。


「おや、小璃。どうした。心臓がドクドクとうるさいぞ」


(そ、それは黎煌様のせいですっ!)


 その時、外から声がかかった。先ほど出ていった宦官が戻ってきたようだ。

 黎煌が入室を許すと、重々しい扉が音を立てて開き、分厚い書類の束を抱えた宦官が静かに現れる。彼は文机の上に書類を丁寧に置くと、再び頭を下げて部屋を後にした。


(えっ……この量、今からやるの?)


 璃華は目を見開いた。

 宦官も黎煌も当然のように受け取っているところを見ると、今日が特別というわけではなさそうだ。寝殿にまで文机を据えていることからしても、黎煌は眠る直前まで政務に追われているのだろう。

 宦官が出て行った後、黎煌はふっと表情を緩めた。

それまで纏っていた、場を凍らせるような冷徹な空気は消え、代わりに穏やかであたたかな雰囲気が室内に広がる。


(……昔の黎煌様みたい)


 思わず、璃華の胸が温かくなる。変わっていなかった。

 きっと、今まではずっと気を張っていたのだ。ひとりになって、ようやく肩の力を抜けるのだろう。

 その姿は、皇帝という重すぎる責務の過酷さを、何よりも雄弁に物語っていた。

 黎煌は目を細め、優しく猫の璃華を撫でる。

 その手の温もりと、心地よい撫で方に、璃華の体からふわりと力が抜けていった。


「ああ、こうして璃華を抱きしめ、撫でることができたら、どんなにいいか……」


(……ふぁっ⁉)


 撫でられる心地よさにうっとりしていた璃華の意識が、黎煌のぽつりとこぼした本音に一気に覚醒する。


「小璃の毛並みも艶やかで、触り心地がいいが……璃華の髪も、きっと柔らかくて、良い香りがするのだろうな」


 黎煌は、まるで空想に浸るように、うっとりとした声で続けた。


(あわわわわ……! ああもう、聞いていられませんっ)


 璃華の中で、言葉にならない動揺があふれ出す。どういう顔で、どんな気持ちで、この言葉を受け止めればいいのか、全くわからない。


「その肌に触れることができたら……きっと、絹よりも滑らかで――」


(キャーッ、それ以上はやめてえぇ!)


 璃華は心の中で絶叫した。想像するだけで顔から火が出そうだ。猫でなければ、その場で転げ回っていたかもしれない。

 だが次に聞こえたのは、しんと寂しさを宿した黎煌のつぶやきだった。


「あれほど嫌われているのだから……触れることなど、叶うはずもないか」


 吐き出すようなため息とともに、その声はかすかに震えていた。


(……違うのに)


 璃華の胸が、ぎゅうっと締めつけられる。

 あの夜、あまりにも自分がふがいなかったから、黎煌は失望したのだと思っていた。

 けれど彼は、璃華に嫌われたと思い込んでいたのだ。


「触れられなくてもいい。……会いたい」


 黎煌の声音は、あまりにも切なくて。璃華は、胸の奥が締めつけられるような思いに駆られた。


(うまく言えなくても、ちゃんと伝えればよかった……)


 震えて声が出せなかった、あの夜の自分を悔やむ。


「ニャー」


 口をついて出たのは、猫の鳴き声だけだった。

 何も伝えられないのが、もどかしい。

 けれど黎煌は、目を細めて微笑んだ。嬉しそうな、優しい笑みだった。


「小璃……同情してくれるのか? 優しいな。本当に、お前がいてくれて良かった。璃華を失った俺は、きっと気がおかしくなっていた」


 そして、ぽんと膝を軽く叩きながら続ける。


「さあ、仕事をしなければな。俺のために、側にいてくれ、小璃」


 そう言って、黎煌は璃華を膝の上に乗せたまま、政務に取りかかった。

 その姿勢ではやりづらいはずだと思うのに、黎煌は一向に気にする様子もない。

側にいてくれ、と言われた以上、璃華も身動きなどできなかった。

 黎煌は、時折膝の上の璃華を満足そうに撫でながら、真剣な眼差しで筆を走らせる。


 その誠実で凛々しい横顔に、璃華の胸がまた、ときめいた。

 猫になってしまったことは困りものだが、こうして黎煌の側にいられるのは、たまらなく幸せだった。

 それに、思わぬ形で、彼の本音を知ることもできた。


(必ず、人間に戻って。黎煌様に、この思いを伝えるの)


 璃華は密かに、固く誓う。

 けれど、どうすれば元に戻れるのか。いくら考えても、その答えはまだ、見つかっていなかった。

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