第二章 猫になったら、陛下に拾われましたー①
皇帝が璃華のもとを訪れたという噂は、瞬く間に後宮を駆け巡った。
即位以来、どの妃のもとへも夜渡りをしていなかったという陛下が、初めて足を運んだのが――よりにもよって、入内初日の璃華の宮だったのである。
この出来事が意味することを、璃華自身はよく知らなかった。だが、皇帝の初めての夜渡りという事実だけで、彼女の地位は一夜にして高まった。
(でも……すぐに帰られてしまったのに)
独りごちた心の声は、誰にも届かない。
夜を共にしたとはいえ、何もなかったことは、侍女の阿李も知っている。落ち込む
璃華を気遣って明るく振る舞っているが、その表情の端々には、彼女なりの落胆も滲んでいた。
侍女は阿李ひとりきり。広すぎる宮殿の掃除や世話に頭を抱えていた矢先、それはあっけなく解決された。
皇帝から下女が十名ほど遣わされてきたのだ。加えて、新しい衣装や装飾品が次々と届けられ、璃華が皇帝の寵愛を一身に受けているという噂は、さらに後宮中に広がっていった。
その様子に、阿李も目を輝かせる。
「やりましたね、娘々! 陛下は娘々に首ったけです!」
届いた品々を仕舞うのにてんてこ舞いしながらも、阿李の声は嬉しさで弾んでいた。
「そ……そんなわけ、ないわ……」
声に出してみたものの、胸の奥に残るしこりは晴れなかった。昨夜のことを思い返すたび、心臓がきゅう、と縮こまる。
(後宮の妃が、侍女ひとりきりで、まともな衣装も装飾もないなど――体面が立たぬと、そうお思いになったのだわ。あのとき、陛下のまなざしには、たしかに怒りの色があった)
まさか、それが当てつけだと受け取られてしまうとは思わなかった。莫大な結納をいただいておきながら、十分な支度を整えられなかったのだ。怒られても、仕方がない。
皇帝からは、もったいないほどの寵愛を授かっているように見えるが、内実はそうではないとわかっているだけに、胸が痛んだ。
加えて、後宮の空気は、まるで真冬の水面のように冷ややかだった。
嫉妬の波は、静かに、けれど確実に璃華をのみ込んでいく。
洗いに出した衣は、ほつれと泥にまみれ、無惨な姿で戻ってきた。ある夜には、宮殿の門前に豚の首が打ち捨てられていたこともある。嫌がらせは、次から次へと形を変えて現れる。
その日も、昼餉の刻がとっくに過ぎたというのに、尚食局へ御膳を受け取りに行った下女が、戻ってこなかった。
「遅いですね……。何かあったのでしょうか」
そわそわと落ち着かない様子の阿李が、扉の外を見やる。太陽はすでに真南を越え、空気に傾きの影を落とし始めていた。
「わ……私は……ま、まだ……お、お腹は空いてないから。だ、だいじょうぶ、よ……。そ……それより……み、みなさんの……お、お食事が……ま、まだ……でしょ?」
璃華は唇を震わせながら、なんとか言葉を紡いだ。
空腹よりも、心の痛みのほうが、ずっと苦しかった。
「娘々より先にいただくわけにはまいりません。それに……湛州国では、朝と夜の一日二膳が常でしたから、問題ありません」
にこりと笑いながら、阿李が小さく首を振る。
「わ、私も……そう、よ……」
璃華は思わず胸元を押さえながら、かすれる声で同意した。
けれど腹の虫が時折、不満を訴えるように鳴いた。
「それにしても、おかしいですね。もうこんな刻限なのに……。少し、様子を見てまいります」
そう言って、阿李が宮殿の門をくぐろうとした、そのときだった。
尚食局へ向かったはずの下女が、涙に濡れた顔で駆け戻ってきたのだ。
「たいっ……たいへん申し訳ありませんっ。高位の妃様のご命令で、徳妃様の配膳の順番は最後になると……!」
「な、なんですって⁉」
阿李が目を見開き、血相を変えて叫んだ。
「入内して日が浅いから一番下っ端だ、と……。御膳も、下女と同じ、粗末な菜で構わないと、そう仰せでした」
「そんな馬鹿なことがっ! 娘々は、正しく『徳妃』に冊立されたお方です! 一体どこの妃が、そんな理不尽な命を⁉」
「そ、それが……名前までは。高位の妃としか教えてもらえませんでした」
戸惑う下女に詰め寄ろうとする阿李の前に、璃華が慌てて進み出た。
「だ、だいじょうぶ……。わ、私は……べ、別に……。そ、粗末な菜でも、構いませんから……」
「娘々がお許しになっても、私が許しません! こんな屈辱、黙っていられるものですか!」
阿李は唇を噛み、両の袖をぎゅっとたくし上げた。
「待って……! や、やめて……っ」
璃華はとっさに、阿李の腕を掴んで止めた。
無闇に騒ぎを大きくすれば、報復の火種になることだってある。璃華の手のひらが、かすかに震えていた。
「そ、そうよ……。た、たしか……この宮の、は、離れに……ち、小さな厨房があったはず。そ、そこで……じ、自分たちの、り……料理を作りましょう」
璃華の言葉に、阿李はしばし黙し、天を仰いだ。
「たしかに……自分たちで作れば、毒を盛られる心配も減りますし。何より、気が楽です」
阿李は軽やかに言ったが、その声音の奥に、鋭く張り詰めたものが感じられた。
ここまであからさまに、妬みと悪意の矢が向けられている以上、いっそすべてを自分たちで賄う方が、無用な心労も減るだろう。
「食材の受け取りは、今のところ妨害されておりませんから、それを使いましょう。でも、いずれそれすら止められる日が来るかもしれませんね。その時に備えて、畑を作っておく必要があります」
さらりと、とんでもない覚悟を口にして、阿李はふんわりと笑ってみせた。
どうやら彼女は、本気でこの広大な宮の一角で自給自足をする気でいるらしい。
徳妃という高位の身でありながら、かえって周囲に不便を強いることになってしまった。そのことが、璃華にはどうしようもなく、つらかった。
「ご……ごめんなさい……。わ、私が……ふ、不甲斐ないばかりに……」
唇をかみしめ、うつむく璃華の肩を、阿李はそっと叩いた。
「娘々のせいでは、断じてございません! 大丈夫ですよ。湛州国の暮らしに比べたら、こんな嫌がらせ、かわいいものです」
凛としたその言葉に、璃華は思わず笑みを零した。
「そ……そうね……。こ、こんなこと……な、なんともないわ」
この宮で、自分たちの手で食事を作り、必要なものを揃えて暮らしていく。
それはある意味、湛州国では決して許されなかった自由だった。
義母の顔色を窺いながら過ごす日々では、一食を抜かれることなど日常で、お仕置き部屋と称された狭い牢に閉じ込められたこともある。
(あの地獄に比べたら……)
今は、何だって耐えられる気がした。
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