やつと私と雨の庭

渡来亜輝彦

黄昏時の我等

 そろりとじわりと現れる闇の気配。

 夕暮れは、魔が現れる時間だという。

 やつがここにくるのに、きっとふさわしい刻だ。

 やつが来たのだと私はわかった。


 やつの気配は、すぐにわかる。

 空気にほんのわずかに金物の香りが滲むからだ。それは血の香りなのだ。


「また来たか」

 奴が来る時は決まって誰もいない時だ。

 そして、黄昏時の、黄金の輝きの中に部屋の闇から現れる。

 私の周りに付き人もいない時に、足音も立てずにこの別荘に忍び込んでくる。

 普段は狂犬のような男だが、いつのまにか部屋にいる時のやつは魔猫のようだった。

「このような人寂しいところにいて、さぞや、退屈だろうと思ってな」

 やつは言った。

「それに貴様の仕事にも役立つだろう。おれがいたほうが」

「黙れ。お前のような魔性に来られるのは、正直、邪魔だ」

 私はやつを睨むが、やつは左目を歪めるようにして笑うだけだ。

「ふふん、お前のような稼業しょうばいの男は、俺みたいな魔物を飼っているに越したことはねえんだぜ?」


 何故か、最近、やつはよくここに来る。



 やつが現れるのは、決まってこの別宅にいる時だけだった。

 ここはまだ作りかけだ。

 この、私の手に入れた広大な土地には、母屋と離れがいくつかあるだけで、手付かずの薮も生い茂っていた。

 構想は考えてあるが、まだ作りはじめたばかり。完成までには膨大な時間がかかるだろう。

 そして、ここは私が落ち着く場所でもあった。仕事場に近い都会にありながらも、人里離れた山の中ではあり、やかましい世間とは別世界のように静か。

 役者の中で、私は仮にもスタアと呼ばれる存在ではあった。今はまだ飛ぶ鳥を落とす勢いだと言われていたが、遅咲きでデビューした私は伝統文化の後ろ盾もなく、ただがむしゃらに頑張ってきた。だからこそ、私は儚く燃え上がってしまうフィルムのように、自分もまたいつか斜陽を迎える日のことを、どこかで予感していた。

 だからこそ、ここが落ち着いた。

 ここで一人で考え事をしたり、本を読むのも良い。一人になれ、瞑想にも良い場所で、役作りの時もよく使う。

 しかし、いつしか、私が仕事の合間、瞑想でもしようとここにくる時に、やつはその邪魔をするように現れるようになったのである。

 やつは私よりよほど背が高く、しかし、まだ存在が希薄なせいか、輪郭はぼんやりしている。特に体の右側が空間に溶けるようにおぼろげだ。しかも、その足元に影がない。

 やつがどういう存在なのか、私はまだはっきりわからない。まあしかし、もののけの類ではあるのだろう、とうっすら思っていた。

 やつは、私とまんざらゆかりがないものではない。

 私はやつを作った者のひとりではあった。


 この庭を作り始めた頃、私が演じていた『人物』こそが、やつなのだ。



 *


 最初にこの形の『やつ』に出会ったのは、仕事関係の打ち上げの料亭だったと思う。様々な関係者がいる華やかな宴席だった。

 私はそういう華やかな場は苦手で、すっかり疲れてしまったのだ。

 ほろ酔いになった時分、酔いを醒まそうと用を足しに出たついでに渡り廊下で月を眺めていた。

 その時にふと声をかけられたのだ。

「お前、オオニワだよな? 役者の大丹羽勇次郎おおにわゆうじろう

 あからさまに無礼な態度だった。どうせ酔いどれに違いない。

 大丹羽勇次郎は確かに私の芸名だ。私は普段は別に役者らしくもないから、気づく人間もそれほど多くない。が、こうして声をかけられることも皆無ではない。

 普段はきちんと応対することもあるが、相手は無礼者なので私は無視をしてやり過ごそうと思った。

「人違いだ」

「人違い? つれねえなア」

 しゃがれた声だった。

「おれのことは、はじめましてじゃないだろう?」

 男は道を塞いで絡むように言った。

「それとも何か? 大庭勇おおばいさむと本名で呼んで欲しいのか?」

「なに?」

 近くの部屋でどっと笑い声が起こったが、盛り上がる室内の温度と裏腹に、私のいる廊下は冷え冷えとした空気が立ち込めてきていた。

 まるで目の前の男がこの世のものではないように。

「別にそう怖がることはねえ。お前にとっては見知った顔だ」

 男はそういうと、部屋から漏れる灯りの中に半分姿を現した。

 男は演技でもない経帷子のような白い着物を着ていた。

 なるほど、と、私は思った。私が演じていた人物を真似した不埒ものなのだ。きっと。

 私はまだそう信じていたかった。

 しかし、私にはやつの右側の輪郭が空間に溶けているのが見えている。とたん、ぞっとした。

「ふざけるなら人を呼ぶぞ」

 と、私は虚勢を張った。

 その頃には、私はやつが普通の人間ではないことがはっきりわかった。やはり、輪郭の右側が揺らいでいる。

(人間ではない!)

 私が思わずそう思った時、男が憂鬱に笑った。

「ふふっ、そんなに驚くなよ。前からお前とは一緒にいるじゃねえか。一緒に仕事をした仲だろう」

 にやりとやつは笑った。

 私はごくりと生唾を飲み込みつつ、相手を凝視した。

 そうまで言われて、私はとうとう男が誰だか理解した。

「まさか貴様なのか?」

「そうだ。今までは、楽屋の鏡の中でしか、お前とは会っていなかったな。だが、そろそろ長い付き合いになってきたから、おれのことが『見える』かなと思い、良い機会だから姿をあらわしてみたのだ」

 にやにやとやつは笑った。

「だが、先生だけでなく、お前もやっぱりおれのことが『見える』らしいな。嬉しいぜ」

 左目を細めて、にやりとやつは笑った。

「今日は先生についてきていてなア。いただろ、お前の宴席に」

 確かに、今日の席には、やつを作り出した作家が参加していた。

「先生、仕事が忙しいらしくてな。おれは、そういう時、話し相手になってやるんだ。でも、やはりお前とは浅からぬ縁がありそうだ。面白いな、お前」

 にやりとやつは不気味な笑みを浮かべた。

「お前にもたまに会いにきてやるよ。今後ともよろしく」

 何がよろしくだ。

 そう思った途端、やつは闇に紛れるように消えてしまった。

 やつは、宣言通り、時々は私に会いにきた。

 やつが私の妄想の産物なのか、産みの親の『先生』が作り出したものなのか、それとも別のもののけか。

 私にはてんで見当はつかなかったが、ともあれ、あれから奴は存在した。

 しかし、私の元には頻繁に来なかったので、きっとやつは産みの親の『先生』についているものだろうと思っていたが。

 しかし、近頃は、こんなふうに私によく会いに来る。

 以前は時折ご機嫌伺いのように現れるだけだったが、近頃はこの別宅で庭を眺めていると必ずと言っていいほど気配があるようになった。

 『やつ』は、近くなればなるほど、不穏な存在だと思ったが、私に直接害はなく、こうしてかまいにきて面倒なだけだった。

 しかし、この頃には私は確信はしていた。

 こやつがいくらか私から出た存在にせよ、間違いなく怪異のようなものであろうと。

 そして、やつが近頃私に取り憑いている理由も、うっすらと勘づいてはいたのだ。



 夕暮れの中、やつはすっかりくつろいでいた。

「おー、今日は比叡山がよく見えるぜ。いい気候だった。ほうらみろ、落日に山が黄金に映えて綺麗だぜ」

 やつは伸び上がって窓から遠くを覗き込むような仕草をした。

 私はうんざりとしている。

「何をしにきた?」

「何を? 別に何も。てめえは、おれに目的などないのはわかっているだろう。何故今さらそんなことを尋ねる?」

 奴はにやりとしてそういうと、腰の長刀を抜いて外し、そこに座り込んだ。

「あまりお前に来られても困るからな。早く帰れ」

「ふっ、何が困ると?」

 皮肉っぽく笑うやつの顔の左側だけが、斜陽に照らされて見えていた。

「他に誰もおるまいに。それに、おれが来ても迷惑はかけんだろう。おれは多分、貴様にしか見えていないからな」

「瞑想の邪魔だ。帰れといっている」

「あははっ、今日も一日散々瞑想してたじゃねえか。ふふん、あんまりやると、俗世に帰れなくなるぜ。ただですらお前は厳しいからなア。余計に扱いづれえ奴になるぜ?」

 やつは嘲笑うようにいうと、勝手に部屋にあった私の煙草をふかしていた。

「なんだったか。薮の神様だったか? 怒らせるとここに閉じこもっちまうと、若え奴等が困っていたぞ。ふふ、たまには素直におれの忠告を聞けよ」

「お前の忠告などきいたところで、なんになる? 似たようなものだろう」

「おれとてめえは確かに同類項かもしれねえが、それだけにわかることもあらぁな」

 ふーっと吹き出された煙が、ふわふわと顔に降りかかるのを手で払う。私が明らかに鬱陶しそうな顔をすると、奴は楽しそうに目を引き攣らせる。相変わらず顔の右側は闇の中に沈んでいた。そう、やつの輪郭は朧げだ。

 しばらく黙った後、私は訪ねた。

「何故ここに来るんだ。近ごろ、ずっとここにくるな」

「他に行く場所がねえんだよ」

「そうとも思えないがな。よるべきところは他にもあるだろう?」

「そうか? しかし、『仕事場』じゃ、てめえらの邪魔になるだろう。楽屋はともあれ。流石に目立ちたくはない」

 私は舌打ちした。

「見えないのなら遠慮する必要もあるまいに」

「さて、どうかな。お前の仕事場のやつら、感覚が過敏だから。見える奴がいたら面倒じゃあねえか。おれの姿はおれの生い立ちに関わりがあればかるほど、見やすくなる。監督先生だって衣装のやつだって、関わりはある。危ねえ橋は渡らねえよ」

 やつはそういうと肩をすくめた。

「他にゆくところはあるだろう。そちらにゆけ」

 と言ってしまうと、やつは少し声を落として言った。

「それがな、本当にゆくところが無え。前は先生ところに、散々遊びに行ってたんだが……」

 やつは、ふと吐息をつき、

「もう、いなくなっちまったろ」

 うむ、と私は頷く。

 確かにやつの言う通りだった。やつを生み出した人物は、もうこの世にいなくなっている。

「先生もいないのに、今さら、おれがそこを訪れるのも迷惑だろう。他のやつのところにも当たってみようと思ったが、おれは血の匂いがするからなあ。あんまり行くと嫌がられる。となるとおれみたいなのを、受け入れてくれるところもそうはねえ。でも、ここなら人が来ねえだろ? お前は基本ここでは一人だ」

 ちらっとやつが視線を上げる。黄昏時にやつの瞳は燃え上がるように赤く見える。

「ここはそうそう人も来ねえし、居心地が良いからな。雨風しのぐのにも良いのだ。だから、ここに来ているのだよ」

 やつは調子を少し変えて、陽気な響きを乗せた。

「世辞じゃあねえが、ここは風流な良いところだからなあ、居心地が本当にいいのだ。……これは褒めているんだぜ」

 にやりと笑った後、私の様子を伺い、ほんの少し真面目な顔をしてやつはいう。

「それとも、てめえもおれのようなものには、来てほしくないのか?」

 ふとやつは煙を吐く。

「どうしても嫌というなら、おれは消えるぜ。他のやつをあたってみる」

 そう言われて、私は少し考える。

 やつは本気で言っているのだろうか。

 確かに、やつの生みの親はもういない。

 そして、やつがここまではっきりしたナニカとして存在するようになったのは、演者の私や他の制作者にも責任はあるのかもしれない。

 実際、目の前にいるやつは、いくらか私の中から出てきたものに影響を受けている存在であろう。

 しかし、やつの正体は本当にわからないのだ。怪異、きっと、よからぬ魔性のものには違いない。

 だが、なんにせよ。

 私がやつに関わっている以上、やつを関係ないと切り捨ててしまうのは、私としても無責任に思えた。

「……別に。嫌とは言ってはいない。居れば良いだろう」

 私がひとまずそう答えると、やつの緊張が緩む気配がする。

「それに、来るなと言って来ない貴様でもないんだろう。勝手にするが良いさ」

 そういうと、やつは少し経ってからにやりとした。

「ははは、さすが貴様は話がわかるな。わかった。勝手にさせてもらうぞ」

 いつの間にか、やつがすぐ後ろに来ていた。ほんのりと金物の香りに混じって、煙草と沈香のような香りがした。

「もうすぐ春だな」

 やつは庭を見渡して言った。

「桜の時節、あの木の蕾も咲くのだろう。ここから見る春の景色はさぞや綺麗なのだろうな」

「ああ、無論だ。だが、まだ完成していないからな。桜はそんなに植えられていない」

 私のこの屋敷はつくりかけだ。庭だって、今のままではまだそこまで綺麗にならない。それをわかっているのかどうか、やつはにやにや笑う。

「そうか。では完成を見届けねばならんな。まあせいぜいゆっくり完成させろ。幸いどうもおれは時間がある。完成まで見守ってやろう」

「何を言っている? そんなこと誰も頼んでいない」

 ずっと居座る気か? とむっとするが、やつはのらりとかわした。

「頼まれたつもりはねえ。おれが勝手に見ておいてやるといっておるだけのこと。てめえは何も気にする必要は無えよ」

 やつはくっくと笑うと立ち上がり、斜陽の黄金の光の中に姿を現す。

「なあ、お前はもう一人のおれのようなものじゃないか。たまにこうして、話をしようぜ。そうすれば、こもりっきりのお前にも新たな世界が開けるかもしれねえぜ?」

(迷惑だ)

 私は口に出さなかった。しかし、私の渋面をわかっていて、やつは楽しそうに笑うのだ。

 空は黄金の輝きを、徐々に闇の中に隠そうとしている。

 その中で、やつの長身の痩せた体の影は、幻のように庵の中に現れず、ただ私の影だけが長く長く畳の上に伸びていた。


 そして、私とやつを黄昏の柔らかい光が包んでいた。

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