12.余白

編集部のドアを押すと、冷えた空気とファンの唸りが真っ直ぐに顔へぶつかった。蛍光灯の白が紙束の縁を照らし、インクとトナーの匂いが鼻の奥に薄く張り付く。

「おはようございます」——声は出したが、返ってきたかどうか、右の耳朶には残らない。自席に腰を下ろし、机上のレコーダーを指でなぞる。金属は冷えてから温度を返す。親指の腹に、昨夜の「〈保存しました〉」の白い残像がふっと点る。その縁だけ黒い。


「——おい、須藤」

低い声が背中の上で落ちた。振り返る前に、ノドが一回だけ空打ちする。

「昨日の分、ざっと見せろ」

東堂だ。背広の肩に粉の白がうっすら付いている。大きな手が原稿束を無造作に叩き、机の反射が震える。目は合わないのに、こちらをまっすぐ射抜く重さだけはある。


「はい」

ファイルを差し出す。東堂は片手で受け取り、もう片方でペンを回した。関節が鳴る。

「で、どう書く」

「見たことだけ、です」

「感じたままでいい。理屈はあとで足す。お前、余白を怖がるな」

“余白”という語が喉に刺さり、十まで数える。十で吸って、十で吐く。十一は作らない。右耳の内側で、紙を擦るような微かな逆ざわめきが走る。


「名は伏せるのか」

東堂の声は平板だ。

「……はい」

「理由」

「名を呼ぶと、居座る——から」

言い終わるより先に自分の声が薄くなる。東堂の口角がわずかに動いた。笑ったのかどうか判じにくい。

「いいね。ならモザイクじゃなくて、間で隠せ。詰めるより残す。読者の脳みそに仕事させろ」


コピー機が後ろで鳴り、ホチキスが空を打つ。編集部の雑音はいつも通りのはずだが、今日は音が左から右へ抜け、風は右から左へ戻って来る。逆だ。

東堂は原稿の一枚目に赤で斜線を引き、二枚目をめくった。「参道って単語、多い。場所は“通り”に落とせ。宗教色が勝つ」

「……了解です」

「それと——」東堂は紙の縁を爪でコリコリと掻いた。「お前、今“別のもの”を見てる顔してる」

否定の言葉は喉でつかえる。代わりにレコーダーへ触れ、保存のランプを見ないふりをする。

東堂は身を乗り出し、机のガラスの反射に顎を落として言った。「現場で震えた話、入れろ。ただし一行で。怖いのは“書かれてない方”だ」


「……一行」

「そう。一行“だけ”だ。三行書くと陳腐になる」

東堂は立ち上がり、椅子の背にジャケットを無造作に引っかけた。「昼までに骨格くれ。見出しは仮で“境目”。本文に“境目”って書くな、安っぽくなるから」

「はい」

「それと——おい、須藤」

呼び捨ての重さが首筋に落ちる。

「体験は武器だ。記録はお前も読者も確定させる。覚悟決めろ」

「……覚悟」

「そう。逃げたかったら、残す。追うなら、書け。どっちかだ」


東堂が離れる。背中の広さが視界の端から外れ、空気の密度が少し軽くなる。私はモニターを上げ、CMSの白い余白を開いた。カーソルの点滅が律儀に続く。

〈タイトル未定〉

〈本文〉

一行、打つ。

——最初に音が逆だった。

そこで止める。二行目は打たない。指が勝手に次のキーへ進みたがるのを、手の甲で押さえる。名は書かない。書けば、居座る。


メールの受信ポップが右上で弾ける。〈東堂:進行、昼ラフ。匿名、法務OK〉

〈保存しました〉が小さく点灯し、画面の白がわずかに滲んだ。その縁が黒い。視線を外し、机上の紙束の角を親指で撫でる。乾いた弾力が指に返る。境目の音が小さく鳴る。


「すみません、朱入れ、どこまでいきました?」と後輩。

「半分」

口が自動で答え、目はモニターの白に居座る。右の耳朶がひやりとし、椅子の背で背骨が一本だけ浮く。“あの黒いもの”は今この部屋のどこにも見えない。それでも、見ないふりを選んでいる自分がいる。

——十で吸って、十で吐く。十一は作らない。

呼吸を数えると、キーボードの打鍵音がわずかに遠ざかった。


廊下から笑い声が転がり込み、給湯室の蛇口が開く音が続く。誰かが小走りで通り過ぎ、誰かが溜め息をつく。どれも“現実の音”のはずだ。だが時折、順番が入れ替わる。足音の前に溜め息が来て、蛇口が閉まる前に笑い声が消える。逆。

私はモニターを伏せ気味にして、画面の反射に自分の顔をうっすら重ねた。口元は真っすぐ。笑っていない。それだけを確認する。


「——須藤、会議室」

また東堂の声。今度は遠くから短く、命令だけが転がってくる。

書きかけの一行を上書き保存する。〈保存しました〉。白い文字が点り、縁が黒く見える。

立ち上がる前に、ノートの余白へ鉛筆で小さく記す。

〈反射/逆/縁/名〉

汗で少し滲む。私はページを閉じた。閉じれば楽だが、記事にならない。開けば怖いが、仕事になる。


席を立つ。通路の床は薄いカーペットが利き、足音を吸う。会議室の磨りガラスは外光を抱え込んで白い。取っ手に触れると金属が冷たく、皮膚の温度を確かめるようにじわりと返す。冷えてから、押す。

扉が少しだけ開き、室内の空気が一枚こちらへ滑る。その縁で右の耳朶がまた、わずかに冷えた。


——余白は、埋めない。

そう決めた一行が、胸の内側で静かに居座った。

私は中へ入った。東堂が、紙を二回だけ叩いた。

「おい、須藤。始めるぞ」

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