8.見捨てられた男

多田は一拍、氷を見つめてから言葉を並べ始めた。

「地上の階段を降りる——じゃなくて、冷えてから降りました。肌に当たる温度が先で、足音があとでした」


私は“順番”に下線を引く。


「壁は白いタイルで、くすんだところだけ鈍い鏡になります。ポスターのビニールが波打って、蛍光灯が長く伸びる。人は右から左へ流れていました。風も右から左。でも——」

彼は軽く首を傾けた。「耳だけ、左から右にざわつきました。紙袋を擦るみたいな音が、空気の流れと逆に」


「誰に、寄っていた?」

「前を歩くスーツの男性。右肩です。汗で濡れた布地が、反射の手前だけ曇るように見える。タイルに映った輪郭の縁が、墨を薄く引いたみたいに太る」


私は余白に“右肩/縁(反射)”と書き、囲む。囲った四角がまた暗く見えて、目を上げる。


「鏡の柱が連なる地下道で、反射が連続する場所は濃くなります。自販機のガラスの前で黒が寄って、すぐ離れた。形になる手前で崩れる、を繰り返す」


「声は掛けなかった」

「掛けないことを選びました。足も止めない。助けない/見届けないは、歩幅を変えなければ出来る」


氷がコトンと鳴る。私はペン先を紙に押しつけ、かすかな擦過音で自分をつなぎ止める。


「そのあと?」

「遠回りしました。いつもの出口ではなく、一本向こう。角を曲がるたび、ざわめきが弱くなる。階段を上がる時には、もう普通の風でした」


「——落ちると思った?」

多田は短く頷く。「ええ。でも願わなかった。願うのは、別の話です」


言い切りに濁りがない。私は無理やり仕事の声に立て直す。

「ありがとうございます。昨日の件は、ここまでで」

ノートを閉じかけて、また開く。閉じれば楽だが、記事にならない。開けば怖いが、仕事になる。


「最後に確認を。あなたの言う“死神”は、黒いモヤとして“視える”。反射に寄り、風と逆に揺れ、縁と境目があって、名を呼ぶと居座る——」

「そう“見える”だけです」

多田は穏やかに遮り、入口脇の姿見を一瞥した。「断定はしない。記録は存在を確定させるから」


私はその語をメモに写し、すぐ二重線で消す。消し跡の白が紙より冷たい。


「——今日は、ここまでにしましょう」

言い終えて、自分の声が少し持ち上がるのを感じた。「続きは明日でも」

「ええ」多田は頷く。「順番がありますから」


会計を済ませ、名刺を交換する。形式どおりに頭を下げ合い、椅子が床を擦る音で面談が終わったことを互いに確認する。立ち上がった多田の影が足元のワックスに薄く映り、縁でだけ黒かった。


ドアの鈴が鳴る。外気が狭い店内に一枚差し込まれ、テーブルの水滴が震える。私は録音を停止し、保存ボタンに親指を乗せたまま、一秒だけためらった。押す。電子音。画面に「保存しました」と白い文字。その縁が、わずかに黒く見えた。


私はバッグを肩にかけ、振り返る。多田は入口の姿見の前で襟を整え、何かを測るようにガラスを見つめた。反射の中の彼は、半拍遅れて同じ動きを繰り返す。空調は右から左へ——なのに右の耳朶にだけ、ひやりとした逆向きの気配が触れた。


「では、また」

「はい。明日」


私たちは別の方向に歩き出す。鈴が再び鳴り、私の背中側で音がほどける。

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